瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(259)

・中村希明『怪談の心理学』(11)
 昨日の続き。
 中村氏の赤マント流言の検討は、2014年1月5日付(075)に見たように、第一章「トイレの怪談の系譜――デマの心理学」にて、松谷みよ子現代民話考[第二期]Ⅱ 学校』に載る話を主たる資料として、なされています。
 中村氏はまづ、「「赤マント・青マント」の恐怖」の節に、2014年1月7日付(077)及び2014年1月8日付(078)に検討したように自身の赤マント体験について述べて、次の「暗い情動」の節から『現代民話考』に載る話を取り上げてこの赤マント流言の流れを辿って見せるのですが、私はここで、2014年1月9日付(079)から「松谷みよ子『現代民話考』の赤マント」との見出しで、中村氏の説明ではなく典拠である『現代民話考』に遡って点検して、そこでは中村説に特に触れませんでした。赤マント流言の検証としては、やはり前提に問題があって、取り上げても一方的に批判するだけになってしまうと思ったからです。この点については2014年1月6日付(076)の最後に、

 ここで注意して置きたいのは、中村氏が赤マントについて、昭和14年(1939)2月という時期を知らないことはもちろんですが、夕方路上に出没するというパターンを全く意識していないことです。ここが『紙芝居昭和史』や『楡家の人びと』を見ていた朝倉喬司との違いで、2013年10月24日付(03)で見たように、朝倉氏が中村氏と同じ話を引きながら敢えて「学校の便所」に関する記述を省略した所以でしょう。中村氏の弱点は、やはり『現代民話考』のみに依拠しているところにあると言えそうです。
 もちろん、そうなるについては、中村氏本人の体験が学校の便所絡みで、それが強く印象付けられてしまっていたからなのですけれども。

と注意しております。そこを敢えて、『現代民話考』の赤マント流言を中村説を追いながら取り上げて行くのは、全く生産的ではありませんし、自分は遥かに優位な立場にあって先人を指弾するようなことになってしまいますから、余り気持ちの良い作業にはなりません。
 しかし、前回指摘したような中村説の影響力を考えたとき、やはり、一通り検討して置く必要はあるでしょう。
 と云った次第で、2014年1月8日付(078)までにやっていた作業を続けるような按配で、「暗い情動」以下の節で中村氏が述べていることを一渉り眺めて、私見を述べてみたいと思います。(以下続稿)

赤いマント(258)

・中村希明『怪談の心理学』(10)
 昨2019年6月に、井上雅彦「宵の外套」に赤マント流言が取り上げられていることを知って、借りて読んだとき、赤マントが大阪から東京に伝播した、と云う説を読んで、どこからこんな説が提示されたのだろう、と思ったものでした。
 しかし、そのときは思い当たらずに、2019年11月26日付(213)からしばらく、朝里樹『日本現代怪異事典』の「赤マント」項を検討した際にも、2019年11月30日付(217)及び2019年12月1日付(218)に注意したように、何故、朝里氏が大阪市の松ヶ枝小学校の、ただの変質者情報かも知れない例にこんなにこだわりを見せるのか、訝しくて仕方がなかったのです。
 そのうち、井上氏の「宵の外套」の典拠を検討することになって、どうやらこの松ヶ枝小学校の風聞の偏重は、中村氏の『怪談の心理学』に基づくものであることに気付かされたのでした。
 そこで「宵の外套」を検討した際に、8月13日付(255)に、以下のように述べて置いたのでした。

 「逆に大阪から東京に」と云う説は、中村希明『怪談の心理学』に説くところであった。
 中村氏の説については、2013年10月25日付(004)の最後の方に「‥‥中村氏説の検討に際して触れることになりましょうから、今は触れないで置きます。」と述べて、その後、2014年1月3日付(073)から2014年1月8日付(078)に掛けて、中村氏が昭和14年(1939)に京城(ソウル)の小学校で聞いた赤マントの話を中心に、中村氏の赤マントに関する説を検討したのだが、大阪については触れないまま、2016年1月29日付「赤い半纏(09)2016年1月30日付「赤い半纏(10)2016年1月31日付「赤い半纏(11)」に「赤いはんてん」について検討してそのままになっていた。
 「昭和十年」の〈地下室の黒マント〉は、2014年1月10日付(080)に取り上げた、松谷みよ子『現代民話考』に久井ひろこが報告した、大阪の松ヶ枝小学校の話だろう。――2014年2月23日付(123)ながたみかこ『日本の妖怪&都市伝説事典』を取り上げた際に「中断している中村希明説の検討を再開するに当たって取り上げるつもりです」と断っているので、やはり取り上げるつもりではあったのが、赤マントの検討自体を一時中断した折に忘れてしまい、もともとは中村氏の説であったことを忘れて昨年取り上げたところだった。
 中村氏の「大阪から東京」説は、結論を先に言うと、――無理だと云わざるを得ない。詳しくは本作の検討を終えてから取り上げることとしよう。


 最近の記事なのに随分長く抜いてしまいましたが、今回、改めて、上記、中村氏の赤マント流言に関する当ブログの記事を読み返して見て、別にこれで良いのではないか、と思ったのでした。――「大阪から東京」説など取るに足りない思い付きの域を出ないと思ったから、取り上げなかったのだと。
 しかし、この中村説、と云うほどのものではないと思うのですが、改めて、その影響の大きさを思い知らされましたので、気が進まないながら、批判的に検討を加えて置こうと思うのです。(以下続稿)