瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

中学時代のノート(05)

・昭和56年頃に聞いた怪談ノート(2)前篇①

 それでは2~17頁「前篇」を眺めて行くこととしよう。
 2頁は1行めに2字下げで「前篇」とあり、1行空けて3行めから本文。まづ3~12行め、前置きに当たる文章を抜いて置こう。

 三年の時は三人の先生に持ってもらいました。最初■野/先生という女の先生でしたが、子供を産むために一学期/から(終り)休み、夏休みから■田先生という三級先生/(初めて先生になる時、どこかの先生が長期休暇、入院だとか/言う時に代わりの先生として派遣される。その先生を三級/先生といった)がたん任になりました。この先生は子供とド/ッヂボールをすることがすきて、男も女の子も情け容赦/なく剛速球をなげつける、という、男みたいな女の先生/でした。私達の四組は明るい子ばかりのクラスでしたの/で、この明るい先生と気が合い、まるでお姉さんのように/話をしていました。ここで■田先生のした「こわい話」/を一つ。


 5行めの「三級」を、父が鉛筆で囲って、右に線を引いて1行めに「産休」と書き直している。「産休」が分からなかったので「三級」だと思っていたのだが、したり顔で解説までしているところが我ながら何とも微笑ましい。必ずしも初めて教壇に立つときに産休代講をする訳ではないはずなのだが、私の当時の狭い見聞では、若くてまだ学校が決まっていない先生の、試用期間のように捉えていたらしい。
 校訂案。

 三年のときは三人の先生に持ってもらいました。
 最初■野先生という女の先生でしたが、子供を産むために一学期(終わり)から休み、夏休みから■田先生という産休先生(初めて先生になる時、どこかの先生が長期休暇、入院だとかいうときに代わりの先生として派遣される。その先生を産休先生といった)が担任になりました。
 この先生は子供とドッヂボールをすることが好きで、男も女の子も情け容赦なく剛速球を投げつける、という、男みたいな女の先生でした。私たちの四組は明るい子ばかりのクラスでしたので、この明るい先生と気が合い、まるでお姉さんのように話をしていました。
 ここで■田先生のした「こわい話」を一つ。


 ■田先生は2017年4月9日付「大澤豊監督『せんせい』(1)」に取り上げた、映画『せんせい』の五十嵐めぐみ演ずる山口竹子先生に、雰囲気が似ている。革ジャンでバイクに乗ったかどうかは分からないが、髪型やドッヂボール好きなど、かなり共通しているように感じられた。(以下続稿)
9月30日追記】原本の当記事に関連する写真を貼付した。

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2頁

中学時代のノート(04)

・昭和56年頃に聞いた怪談ノート(1)目次と自序

 オキナ株式会社の「縦けい19行」のB5判糸綴じノートで、表紙の題を書く横罫に「■■■■■」と標題を油性ボールペンでごく薄く控えめに書いている。やはり当時からこの標題を堂々と表に出すには気恥ずかしさがあったものと見える。その下の記名欄に「1の7 ■■■■」と私の名前があるが、これは油性サインペンである。
 綴じ目は紺色布目模様のテープで隠し、補強されている。テープの幅は 2.5cm くらいで表紙側に 1.5cm、裏表紙側は 1.0cm で、表紙側の下部、題と記名する欄の丁度右に、綴じ目(右)側を上に横転した金の印(縦 0.6cm)が3つ並んでいる。1つ(横 0.9cm)は紺で[MS]と抜き、2つめ(横 0.6cm)は枠と文字が[MB]と金、3つめ(横 1.3cm)は[30枚]と紺で抜く。その 0.9cm ほど下に、やはり右を上に「W22」と横転した文字を押し窪ませている。
 私はこのノートを、後述するような理由で中学2年のときに書いたと思っているのだが表紙には「1の7」とある。これは、中学1年のときに何か書くつもりで買って名前が書いたが、そのまま何もせず、しばらくして2年生になってから、怪談を書き留めるのに使った、と云うことだろうと思うのである。
 表紙の裏、右寄りに目次がある。上部に「■■■■■/前   篇/後   篇/附   録」下部に「⑴/⑵/⒅/(30)」とある。
 ノート本文は60頁あるが、記載があるのは31頁まで、小口の下の角に頁付を記入して置いたのが丁度半分の30頁までで、残りの29頁は余白。
 薄い緑がかった灰色で子持枠(21.0×15.0cm)があり、1行めと19行めは幅 0.8cm、枠側に 1.0cm 間隔で20個の・が打たれる。それがない2~18行めは若干狭い。余白は1頁は上 1.8cm、左 0.9cm、下 1.7cm、右側のノドは計測し難いが 1.0cm くらい、上辺の上に枠(0.9×6.9cm、右側9行分くらい)があってヘッダ(柱)の記載が出来るようになっている。私はここを使用していない。裏の2頁の余白はこれを左右反転させた寸法になっているが、柱の位置は1頁と変わっていない。
 以下、行数は空白の行も勘定に入れて全て1頁19行とした。
 1頁、まづ2行取り1字下げで「■■■■■」と標題、3行めは空白、4~14行めに序に当たる文章。

 私は小学三年から五年生迄の三年間、兵庫県明石市に/住んでいました。五人の先生に持ってもらいましたが、うち/二人は話題が豊富で、いろいろな話を知っていました。「こわ/い話して」とたのんでも「あとでしてやる」とか言われて数話/しか聞けませんでした。その記憶もこの二、三年のうちにかなり/うすれてきたので今のうちに書き記しておこうと、筆を起/こしたのです。私は勝っ手に文飾をしたり、付けくわえる/とか言うことよりも、話した人の一句、一字をだいじにす/る方なので、方言で記すことにしました。前篇と後篇に/分かれていますが前篇は先生が、直接だれかから聞いたも/の、後篇は本で読んだものです。


 校訂案を示して置こう。

 私は小学三年から五年生までの三年間、兵庫県明石市に住んでいました。五人の先生に持ってもらいましたが、うち二人は話題が豊富で、いろいろな話を知っていました。「こわい話して」と頼んでも「後でしてやる」とか言われて数話しか聞けませんでした。
 その記憶もこの二、三年のうちにかなり薄れてきたので今のうちに書き記しておこうと、筆を起こしたのです。
 私は勝手に文飾をしたり、付け加えるとか言うことよりも、話した人の一句、一字を大事にする方なので、方言で記すことにしました。
 前篇と後篇に分かれていますが前篇は先生が、直接誰かから聞いたもの、後篇は本で読んだものです。


 2行空白で17行めに1字強下げて「三年」とある。
 さて、表紙には「1の7」序には「三年」とある。しかし私の記憶、と云うか現時点の考えでは、このノートを執筆したのは2年のときのことなのである。
 私の中学には夏休みに、教科の宿題がなく「課題学習」と云って、自由研究だけをすれば良いことになっていた。――私が妙な調査に入れ込むことになってしまった原因はこの3年間にあったと云って、過言ではないかも知れない。
 細かい事情は、当時の資料を発掘すれば明らかに出来るはずなのだが、今、その余裕がないので記憶に頼って書いて見る。だから実は違っているかも知れない。――中学1年の夏、私は中学の地元の神社仏閣や小祠・石仏を調べ、住宅地図の写しに場所を示して、地元のガイドブックを作成したのである。これに加えて、父の郷里に家族で帰省した折に祖父や父から聞いた話を纏めて提出したのである。ところが、社会科の「課題学習」を取り纏めた教師は、私が力を入れたガイドブックよりも、父の郷里の伝説や体験談(大したものではないのだが)を纏めた冊子の方を評価して、そちらをメインにして市の社会科研究発表会に出品したのである。
 作業量は明らかにガイドブックの方が多かったから、私にはこれが悔しかったのである。思えば、当然のことで、
実際に寺社を訪ねて、住職や住職夫人、宮司に話を聞いて戦前に活版で印刷した略縁起をもらったり、看板にある由緒書を書き写したり、石仏や灯籠・手水鉢の銘文を読み、炎天下(と云っても今からすると懐かしいくらい快適だったが)自転車で学区の内外を走り回って、図書館で住宅地図のコピー(1枚20円)を取って、と云った手間を掛けてはいるが、別に独自情報がある訳でもなく、区誌を見れば分かるような内容でしかない。対する父の郷里の話は、町史を見れば載っているような伝説と、狐の嫁入りや人魂の、ただ見たと云うだけの目撃談ばかりで、やはり全く面白くないのだけれども、一応オリジナルではある。
 それで、2年生のときには version up した地元のガイドブックのみを提出して、話の聞書は提出しなかった。無理からにガイドブックの方を評価させようとしたのである。それで、代わりに
*1「1の7」のときに何かに使うつもりで買ってそのままになっていた、この縦罫のノートに、数年前に聞いた話を書いて見たのである。
 と、思うのだけれども違っているかも知れない。じゃあ「三年」とは何なのか、と私も思うのだけれども、3年の夏の「課題学習」は『人から聞いたはなし』と題する、これまでに私が聞いた怪異談を集成した冊子を提出したので、同じようなものを別に拵えていないだろうと思うのである。(以下続稿)
9月30日追記】原本の当記事に関連する写真を貼付した。

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表紙
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裏表紙
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目次
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自序

*1:投稿後追記】最近の私は何となくこんな風に思っていて、そこで一応そのつもりで筋を通して書いてみたのだが、これは絶対違う、と思えて来た。――父の郷里の話を纏めた冊子の標題に、父の郷里の地名を使ったのだが、社会科研究発表会の賞状をもらったときに校長がその地名を読み間違えたのである。その校長は、1年のときの校長ではなく2年3年のときの校長だった。そうすると1年ガイドブック、2年父の郷里の話、3年これまで聞いた話、と云う順序になる。十分資料を揃えないで、何となく思い込んでいることをそれらしく書くと、自分のことでもこんな風に簡単に捏造することになる。そこで、思い違いを補強して書いてしまったと思われる箇所を灰色にして示した。――死ぬまでに訂正しなければ。

中学時代のノート(03)

 2016年6月1日付(01)に、要らぬことをつらつらと述べた最後に、中学時代のノートを公開すると予告したのだけれども、その後、色々予定が狂って何もしないまま、はてなブログに移行して、今のこのコロナ禍である。文部科学大臣は大丈夫なのか、と云うくらい、何の対策もせずに、例のガタガタの入試も予定通りやる、運動会も文化祭もやれ、大学も対面授業を始めろ、と言い出した。極暑の頃に久し振りに出て来たから何か気の利いたことを言うのかしらんと思ったら、熱中症の恐れがあるからマスクを外しても良い、と、ぬかした。そうじゃなくて、こんな時期に登校させるのがそもそもおかしい上に、今年はマスクをせざるを得ないのだから、危険だと思われる日は学校が休校を判断しても構わない、と言うべきだろうに。とにかく官僚は予定通りやりたがり、その言いなりなのである。その癖、靖国神社には出掛けてしまう。優先順位が可笑しいだろう。――何だか知らぬが感染拡大が日本ではそこそこに収まっているのを良いことに、国際標準の対策に無知な国民、馬鹿な学生を騙しているとしか思えない。9月から朝の通勤電車が混んでいよいよ恐怖を覚えるようになった。なのに窓は開いていない。途中の、乗客がほぼ入れ替わる駅で長椅子から人がいなくなったので開けようとしたが、開かない。全身の体重を掛けたら15cmも開いてしまった。家人の会社でも、オフィスでマスクを外しているような上司から、出勤するよう圧力が掛かり始めた。その一方で5000億円掛けて会議システムを開発するとか云っている。全く訳が分からない。
 もう扇風機が天井からぶら下がっている電車は見掛けなくなった。私の子供の頃は冷房なんかなかったから、扇風機が回って、首振りでくるくる回っていた。そして窓が開いていた。私は子供の頃から汗かきで、風に当たって乾かしていたのである。電車の窓から入る風に暫く当たっているうちに、気持ち良く乾いて行く。かつての世田谷線は、進行方向の窓が開いたから、本当によく風が入って、頗る気持ちが良かった。ところが今の電車は違う。汗を掻いて電車に乗り込むと、冷える。いや、最近の暑さは尋常でないから、初めのうちはそれでも良い。しかし、汗が乾かずにしんしんと冷えるのが辛いのである。冷え切る。だから私は何時しか、半袖を着なくなり、腹巻と股引を常時着用するようになった。うっかりすると冷え切って堪え難くなる。だから、最近窓を開けるようになって、風を当たれるようになったことが本当に有難い。冷房がなくても、風に当たることで十分涼しい。私は都内の図書館に4月来、何度か自転車で出掛けている。帽子にタオル、マスクで最高気温が35℃近くなった日にも出掛けたが、別にバテたり熱中症になったりしない。自転車を漕いでいる間、風に当たっていると、それほど辛くないのである。いっそ、電車にも窓を開放した(網戸か鉄格子でも構わない)車輌を付けて、私らのような人間に応対してもらいたい。それなりに需要はあろうかと思う。
 どうも、この題で書き始めると余談で長くなってしまうようだ*1。本題に入ろう。
 冒頭に言及した、2016年6月1日付(01)の最後の段落は以下の通り。

 そこで、追々過去に私が調査したり記憶を書き留めたりしたノート類を当ブログにまとめて置こうと思うのですが、まづ昭和59年(1984)4月から昭和62年(1987)3月、横浜市立某中学校の生徒だった頃に書いたもののうち、恐らく中学2年生の夏に書いたノートを公開しましょう。(以下続稿)


 このノートの文字起こしをして行こうと思う。ただ、ノートの題は今からすると大袈裟なので、今更余り表に出したくないのである。それから、それなりに人名が登場するのだが、それもやはり伏せて置く必要があろう。そこで、当ブログではそれら、検索に引っ掛かると不味い字句は■■で伏せて置くことにする。しかし、それでは原本の内容が部分的に、永久に分からなくなってしまう。それも困るので、別箇、原本の画像を修正なしに上げて置こうと思うのである。
 ノートの内容は、私が昭和55年(1980)4月から昭和58年(1983)3月までの3年間、兵庫県明石市の新興住宅地にある小学校の3年生から5年生までの間に聞いた怪談を、恐らく昭和60年(1985)の夏に書き留めたものである。原本の画像は有料サービスに投稿して研究目的に利用する人が見るようにしようかと思っているのだが如何だろうか。仮に「昭和56年頃の怪談ノート」と題して置く。原題が知りたい方は追って公開する予定の画像の方を御覧下さい。(以下続稿)

*1:10月1日追記】やはり若書きをそのまま公開することに躊躇があるので、何のかのと後回しにしようとしてしまうのである。

赤いマント(271)

・中村希明『怪談の心理学』(23)
 昨日の続きで、13節め「白い手の恐怖と思春期の性不安」の後半、本題の部分を眺めて置きましょう。48頁10行め~49頁5行め、

 フロイトは単純な願望充足夢を歪曲・加工する最大の力に、リビドーの抑圧をあげた。/「学校の怪談」というデマゴーグも、集団の意識化に眠る暗い願望を充足するものであった/から、フロイトが「夢判断」で用いた理論がそっくり応用できる、
 筆者の中の娘が小学校三年生だった昭和四十九年ごろになると、当然全国の小学校のト/イレは清潔な水洗トイレに替わっている。このころになると、トイレの下からヌッと出る/「白い手」は、白いタイルの便器の孔から飛出してきて話しかける親指小僧に変わっていた/【48】という。
 フロイトの夢解釈によると「蛇」も「親指小僧」もみなペニスの「象徴」である。つま/り、密室であるトイレの下の空間から出現する「白い手」の恐怖は、思春期の少女が持つ、/性に対する漠然たる期待と不安とに密接に関係していると解釈することによって、トイレ/の怪談が女子生徒に多い理由がはじめて説明がつくのである。


 フロイトと云うと何でもそっちの方に持って行かれてしまう印象があります。
 「中の娘」と云うからには3人姉妹で、昭和49年(1974)ごろ、すなわち昭和49年度に小学校3年生だったとすれば昭和40年度の生れとなります。
 「親指小僧」の話を中村氏に知らせたのは「中の娘」さんなのでしょうけれども、この妖怪(?)の話題は、どのくらい広まっていたのでしょうか。
 そこで、帯の宣伝文句に「戦後から二〇〇〇年前後に/ネット上に登場する怪異まで/日本を舞台に語られた/一千種類以上の怪異を紹介!」と謳う朝里樹『日本現代怪異事典』を見てみましたが見当りませんでした。『日本現代怪異事典』については、一昨年来「おんぶ幽霊」項、「浅川駅」項、それから「赤マント」項について当ブログでも検討してみました*1。その折に2018年8月22日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(39)」にて「細かく名称で分けた項目と大雑把に纏めた項目とのバランスの悪さが目立つ」と指摘して置いたのですが、その後、この弱点のうち前者をカバーする続篇が刊行されました。
・朝里樹『日本現代怪異事典 副読本』令和元年(2019)6月28日 初版第1刷発行・定価1800円・笠間書院・315頁・A5判並製本

日本現代怪異事典 副読本

日本現代怪異事典 副読本

  • 作者:樹, 朝里
  • 発売日: 2019/07/01
  • メディア: 単行本
 どのような本であるのかは、そのうち検討の機会があるでしょう。今、見て置きたいのは287~308頁、最後の章である「第5章『日本現代怪異事典』拾遺」に、50題の追加があることです。ひょっとしたら、と思って眺めて見たのですが、『日本現代怪異事典』刊行後に入手したと思しき魔矢妖一・真宵魅鬼・闇月麗・マイバースデイ編集部などの本、それからWEBサイトからの追加でした。もちろん、ネットで検索してもグリム童話やペロー童話の親指小僧がヒットするばかりでなかなか昭和49年(1974)頃に小学校の女子便所に出現したらしい、この妖怪「親指小僧」には行き着かないのです。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 さて、以下の節は2016年1月29日付「赤い半纏(09)2016年1月30日付「赤い半纏(10)2016年1月31日付「赤い半纏(11)」に検討してあります。この4年半、空いたままになっていた隙間がこれで漸く埋まりました。ここで一先づ。この作業は切り上げることとしましょう。(以下続稿)

*1:「異界駅」みたいな話にそもそも興味がないせいか「浅川駅」項については少々手応えがありませんでしたけれども、他の2項については、この事典がかなり問題を含むものであることを明らかにし得たと思っております。

赤いマント(270)

・中村希明『怪談の心理学』(22)
 2014年1月5日付(075)に細目を示した第一章「トイレの怪談の系譜――デマの心理学」の11節め・43頁5行め「伝達内容の変形」、12節め・46頁13行め「伝説というデマ」は心理学を使ったデマ・伝説の解説です。
 前者は情報の変容・歪曲の仕組みを解説した節で、10節めを引き継いだ記述がありますからそこだけ抜いて置きましょう。まづ46頁3~6行め、

 夕暮の川辺で見なれないよそものの子供を見たという村人のなんでもない目撃談も、人/から人に伝わるうちに、それが数日前に村の子を淵に引きこんだ河童であったかもしれな/いという尾ひれが付される。と、それはにわかに河童伝説の中に同化されて、近隣に噂が/広まることになる。


 次に、10~12行め、

 つまり、便所の下から現れて子供らに危害を加える「白い手」の主は、本来、水辺の妖/怪河童伝説の中に集約される宿命をはじめから持っている。なぜなら、もともと伝説とい/うのはデマの固定したものだからである。


 そして後者では、14行め~47頁3行め、

 アメリカの社会心理学者R・T・ラピエールは「伝説とは民族の言語的遺産となったデ/マである」と定義した。つまり、伝説とは寿命の長い噂話の一つであり、最初のうちはい/【46】ろいろ変型するが、それ以上変わらなくなると安定して時代から時代に受けつがれていく。/しかし、そのデマが伝説になるためには、それが後世の人にも重要な意味をもつ、出生、/結婚、死亡に関するような普遍的な話題が、もっとも民話になりやすい。

として、民族や人類にまで共通する「普遍的無意識」を探る手懸かりとしてユングが民話を利用したことを指摘し、16行め~48頁1行め、

 このように考えると、現代の民話である「学校の怪談」にも、立派に精神分析の手法が/【47】応用できることになる。

と云う風に、話を持って行くのです。
 Richard Tracy LaPiere(1899.9.5~1986.2.2)はスタンフォード大学社会学の教授(1929~1965)でした。――私はこう云った辺りの事情には不案内なので、ラピエール氏やユング氏の所説がどのように日本で紹介されて来たのか、殆ど知識がありません。高校時代の知人に、アニマ・アニムスがどうこう云う本を薦めて来た奴がいて、私も読まされたのですが、私はどうももっと表面的な現象に拘う正確なので、その方面には深入り出来ませんでした。
 そしてまづ手始めに、13節め・48頁2行め「白い手の恐怖と思春期の性不安」にフロイトを応用して見せます。この節は9月3日付(264)の最後に触れたように、7節め「なぜ赤マントの怪人になったか」の最後で、唐突に赤マントの出没場所を学校の女子トイレに限定してしまったことと絡んで、と云うか、漸くここに来てその説明が為されるのです。この節は如何にもフロイトと云う感じ(!)なので、全文を抜いて置きます。フロイトについては、大学の一般教養の心理学の授業で習ったのでラピエール氏やユング氏の所説よりは知っている(!)つもりです。
 まづは前半の導入部分を見て置きましょう。48頁3~9行め、

 トイレの怪談が女子のトイレに多いのは、そこが妖怪のひそみやすい閉鎖空間だからと/いう理由だけでは説明がつかない。なぜなら、用便のためにパンツをぬいだ無防備な姿勢/でうずくまる肉体的な不安は男女に共通しているからだ。
 しかし、無防備な箇所を下にさらすのが一ヵ所ではない女子生徒の場合に、恐怖はさら/に倍増するからではなかろうか。実際に地方の民話に、昼寝していた農家の嫁が、秘所に/蛇にもぐりこまれて死亡する話がある。
 筆者はトイレの怪談が女子生徒に多い本当の理由が、ここにあると思うのである。


 この辺りに関連する中村氏の体験は、2014年1月7日付(077)に抜いて置いたように、この章の5節め「「赤マント・青マント」の恐怖」に述べてありました。私はそこで為されていた説明で良いのではないか、と思うのですけれども。
 他の研究者の「トイレの怪談」に関する見解を、今直ちに提示出来ませんが、無防備になる空間だからと云う意見は、常光徹辺りも述べていたと思います。しかし、女子生徒が多いと強調し、その理由を性的な事情に結び付けるようなことは、していないようです。(以下続稿)

赤いマント(269)

・中村希明『怪談の心理学』(21)
「明治時代の小学校」の怪談は、『現代民話考』にはこの今村泰子の報告の他に4例、ほぼ同時代の水野葉舟(1883.4.9~1947.2.2)や佐々木喜善(1886.10.5~1933.9.29)の報告も含め、幽霊や妖怪が「出た」と云った単純な話ばかりで、報告例も多くありません。この辺りの事情は2011年5月18日付「明治期の学校の怪談(4)」に推測したことがありますが、「出た」と云うだけの話は、もっと多くの学校に存在していたのではないでしょうか。しかしこんな話が報告に値するとは思われなかったので、記録されずにそのまま消えてしまったのでしょう。――クラブ活動もなく学校で過ごす時間が短かった明治期の小学校に、そんな複雑な怪談があろうはずもなく、やはり裕福な子弟が進学した中等教育・高等教育で、さらに寄宿舎のような、ずっと校内にいるような連中辺りから学校の怪談は発達して来たのでしょう。
 それはともかくとして、「「白い手、赤い手」と河童のフォークロア」の節の続きに戻りましょう。41頁1~6行め、

 水洗便所に替わる前の汲取式のトイレは、うっかり大きな用を足すと下から “おつり” /がきた。河童が下から子供の「尻へご」を抜くという伝説が実感できるような不潔な場所/であった。それに片田舎の小学校では、便所は学校中で一番水はけの悪い低湿地に建てら/れたりしていて、水を好む河童もしのんでくる条件がととのっていた。
 この厠*1で用便中の尻をなでる河童の手の話は、すでに禁制の随筆集である津村淙庵の『譚/海』に次のような動物報恩譚として書きとめられている。


 そして「家伝の妙薬」の由来として語られる「厠で尻をなでる河童の手を切り落とし、取り返しに来た河童から伝授されたという」動物報恩譚を紹介します。続く42頁12~15行めは既に2015年5月3日付「深夜の呻き声(2)」に引用し、2015年5月2日付「深夜の呻き声(1)」に引いたブルーバックスB-783『怪談の科学 PART2』の記述と合わせて検討してありますが、引用しなかった続く一文(15~16行め)に「‥‥。もともと動物報恩譚のつ/かぬ程度の膏薬だったから幻の処方も失われたのだろう。‥‥」とあるように、これは全くの余談ですが、続いて、43頁2~4行め、

 筆者の昭和三十年代の話として、先祖の医師が親ダヌキが連れてきた子ダヌキの目を治/したおかげで、いつも待合室の患者が切れないほど繁盛している秩父のさる眼科医院の噂/をきいたことがある。

だとか、13~15行め、

 戦前の小学校にはプールなどなかったから、付近の川で遊んでいた仲間の小学生が深み/にはまって溺死した事件があった。それが河童の仕業であると本気で主張する同級生もい/たものである。

といった自身の見聞を交えながら、「河童」が「狸や狐と同様に、人間にごく身近な存在であった」こと、「水の神である河童はもともと闇の世界に棲む妖怪であ」ることなどを説き、16行め~43頁4行め、この節の最後ですが、

 ともかく、山奥の宿について便所に案内されたら、そこは途中で水を飲んだ清流の上に/【42】かけ渡した川屋であったという笑い話が「厠」という名の由来である。この話からわかる/ように、トイレの怪談はもともと水に縁のあるフォークロアとして存在した。
 このように、古くからある伝説にデマゴーグがとりこまれると、トイレの怪談がいっそ/う強化されて広く分布することを次に考証しよう。

と説き進めるのです。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 さて、私の通った学校の便所は全て水洗でしたが、2016年5月24日付「昭和50年代前半の記憶(1)」以下にしばらく回想した家が2013年2月21日付「七人坊主(38)」に述べたように汲取式で巻紙のホルダーもなかったから、昔の便所の実感は僅かながらあります。もちろん、母屋とは別棟の便所で用を足していた少年時代の父が感じていた恐怖のようなもの(しかも家の裏が寺で、墓地だった)はまるで感じませんでした。小便器が別にあったせいか「おつり」の記憶もありません。覗き込むとかなり下に堆積しているのが見えたのですが、今考えると、あれは我々家族の糞尿だったのです。しかしながら小学2年生までのことですから、何だかおかしなものを見ているような按配で、それ以上の感慨はなく、薄暗い中で、開口部から差し込む微かな光を弱々しく反射した盛り上がりが今でも思い出されるようなのです。――妙な話題になりました。いえ、私の家の便所は夜は煌々と裸電球が点りましたから、個室内に照明がなかった時期の怖さと云うものは、やはりまるで想像出来ないのです。(以下続稿)

*1:ルビ「かわや」。

赤いマント(268)

・中村希明『怪談の心理学』(20)
 昨日の続きで、次の節、39頁11行め「「白い手、赤い手」と河童のフォークロア」を見て置きましょう。ここではいきなり39頁12行め、2字下げの引用が始まります。
 ここでは原典である『現代民話考[第二期]Ⅱ 学校』から引いて置きましょう。単行本「第一章 怪談」77頁〜110頁13行め「六、便所にまつわる怪」=文庫版「第一章 笑いと怪談/怪談」93頁5行め〜131頁「六 便所にまつわる怪」の、単行本87頁14行め〜92頁14行め「三 白い手・赤い手」=文庫版105頁15行め〜111頁7行め「白い手・赤い手」は共に19例、まづ単行本87頁15行め〜88頁3行め(=文庫版105頁16行め〜106頁4行め)に、例話として見えています。改行箇所は単行本は「\」で、文庫版は「|」で示しました*1

 昭和十八、九年頃の話。岡山市内のある旧制中学校の寄宿舎でのこと。夜、便所に|【105】行ったら天\井の方から「白い手がいいか、赤い手がいいか、青い手がいいか」という声|が聞えて、冷たいもの\【87】にお尻を触れられたという。あとで調べてみると、以前その便所|の中で寄宿生のひとりが首つり自\殺をしたことがあったということがわかったという。
                                岡山県・山内靖子/文――


 回答者の1行は下寄せ。山内靖子(1937生)は、日本の昔話12『東瀬戸内の昔話』(昭和50年・日本放送出版協会)の編者(柴口成浩・仙田実・山内靖子)の1人でしょう。

 続く「分布」の15番めに、単行本91頁17行め~92頁1行め「○岡山市内の旧制中学。本文。話者・当時旧制中学に通学していた近所の生徒。回答者・山内靖\子岡山県在住)。」と、1行めは1字下げ、2行めは2字下げで見えています。文庫版110頁7~9行め「*岡山市内の旧制中学。本文。|話者・当時旧制中学に通学していた近所の生徒。回答者・山内靖子岡山県住)。」と、こちらは1行め1字下げ、2~3行め3字下げ。
 中村氏は40頁1行めまで、回答者に関する情報は省いてこの話の本文のみを引用し、1行空けて2~5行めに、

 物資不足の戦時中は、当然ながら貴重品のチリ紙は各自持参だった。
 どこのトイレに入ってもロール・タイプのトイレットペーパーが備えつけてあるのは昭/和元禄の一九七〇年代からである。このころになると呼びかけられるのは、運悪くペーパ/ー切れのトイレに入った子供だけになったらしい。

と、ちょっと噛み合わないコメントをしてから「白い手・赤い手」の項に集められている、便器から手が出る怪談へと話を進めるのです。6~10行め、

 しかし、物資不足時代に誕生した「赤い紙白い紙」の怪談が高度成長で豊かになった七/〇年代まで根深く残っている本当の理由は、おそらく、トイレの下の方から子供たちのお/尻をなでまわす「白い手」の恐怖と結びついているからだろう。
 なぜなら、便所の下から現れて子供の尻をなでまわす怪談だけが、独立して明治時代の/小学校にも存在するからである。

として、11~13行め、前後1行空け・2字下げで『現代民話考』の「白い手・赤い手」の項の最後、15番めの話を、やはり回答者を省いて引用します。これもやはり原典から抜いて置きましょう。単行本92頁11~14行め(=文庫版111頁4〜7行め)、

熊本県飽託郡天明村(現、天明町)*2。明治三十五年頃の話。学校の便所には、一ヵ所*3|手を出し\てきてお尻をなでる所があり、夕方になって便所へ行きたくてもがまんし|て家へ走って帰った\ものだった。
 話者・母。回答者・今村泰子(東京都在住)


 Wikipedia天明町」項を見るに、熊本県飽託郡天明村は昭和31年(1956)9月30日に飽託郡川口村・中緑村・内田村・銭塘村・奥古閑村・海路口村が合併して発足した村で、昭和46年(1971)4月1日に町制施行して飽託郡天明町になりました。その後、平成3年(1991)2月1日に熊本市に合併編入されています。ですから『現代民話考』刊行時には確かに「飽託郡天明町」だったのですが明治35年(1902)頃には「飽託郡天明村」は存在しませんでした。では、どこの村だったのかと云うと、かつて(2006年9月8日)国立国会図書館で「民話の手帖」の「現代民話考」の載っている号を一通り閲覧した際に、恐らく会員住所録から私の関心の中心であった『現代民話考[第二期]Ⅱ 学校』の報告者を書き抜いた中に「今村泰子  東京都練馬区石神井1-■-14(熊本県飽託郡銭塘尋常小学校1928年3月卒)」とある*4のがヒントになりそうです。銭塘は「ぜんども」と読みます。今村泰子(ひろこ。1916~2005)の生歿年は「国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス」等にて判明しますが、このメモから今村氏は大正5年(1916)の早生まれで、昭和3年(1928)3月に銭塘尋常小学校を卒業していることが分かります。もちろん今村氏の母が、後に「天明村」となる他の村から「銭塘村」に嫁入りして来た可能性もありますけれども、仮に同じ村の出身とすると、明治8年(1875)創立の銭塘尋常小学校と云うことになります。「熊本市立銭塘小学校」HP「学校の沿革」を参照するに、創立当初、銭塘村本田(ほんでん)に校舎が建築され、明治14年(1881)に銭塘村五町に移転、明治42年(1909)に銭塘村三町に移転、これが現在地(熊本市南区銭塘町990番地)のようです。そうすると母の通った時代と今村氏の通った時代で場所が違うことになりますが、先刻断ったように今村氏の母が通ったのは別の村の小学校かも知れませんので、飽くまでも可能性の話です。
 とにかく、これを「熊本県飽託郡天明村」の話とするのは不正確なので、今後、引用・言及する際には「現在の熊本市南区」とするべきでしょう。
 長くなりましたので、続きは次回に回します。――今村義孝(1908~2006.10.18)泰子夫妻共著の本を、2011年7月11日付「今村義孝・今村泰子『秋田むがしこ』(1)」から取り上げて、未來社の『日本の昔話』シリーズについて述べるつもりだったのだけれども、これもそのままになっているうち、このシリーズの装幀の違う揃いが開架に並んでいた都内の区立図書館2館に気軽に行けなくなってしまったので、続きがなかなか書けそうにありません。(以下続稿)

*1:なお、単行本の1行め、最初の読点が半角なのに「 ら 」に2字分費やすなど、結局他の行より1字半、字数が少なくなっており、校正途中での変更などを窺わせるのですが、今のところ理由は不明です。

*2:ルビ「ほうたく・てんめい」。なお文庫版はこの括弧をやや小さくする。

*3:文庫版「一か所」。

*4:恐らく住所録の書き抜きに、別の記事(会報などへの投稿)にあった小学校卒業年次を書き添えたもの。

赤いマント(267)

・中村希明『怪談の心理学』(19)
 それでは次の節、37頁13行め「「赤い紙ヤロカ、白い紙ヤロカ」」を見て置きましょう。第一章「トイレの怪談の系譜――デマの心理学」の細目は2014年1月5日付(075)に示しましたが、その9節めです。
 14行め~38頁8行め、

 筆者が武田鉄矢氏の口から聞いた「赤い紙」のトイレの怪談は、まだ物資不足の続いて/【37】いた戦後をしのばせる内容だ。
『芸能人年鑑』によると、氏は昭和二十四年の生まれだから、小学校でこの怪談をきいた/のは高度成長が始まる直前で、日本が未だ貧しかった昭和三十四年前後のことになる。
「赤い紙、白い紙」の怪談は『現代民話考』にほぼ全国から収録されている。その中で一/番古い話は昭和十九年で、その前年には「青い紙、赤い紙」として流行しているから、こ/の怪談が「赤マント」からのバリエイションであることがわかる。紙製の風船爆弾が登場/した戦争末期だから、さすがの赤マントの怪人もぜいたくな赤マントが品切れとなり紙で/代用していたようだ。


『芸能人年鑑』と云う本はないので『日本タレント名鑑』のことでしょう。武田鉄矢(1949.4.11生)の語った怪談は、2014年1月4日付(074)に引いた「はじめに」の8頁4~6行めに見えています。
「赤い紙、白い紙」の「一番古い話は昭和十九年」と云うのは8月30日付(260)に引いた、現在の大阪市立木川小学校の例だと思われますが、昭和18年度のことですから昭和18年(1943)とするべきでしょう。これは武田氏の話と呼び掛けの台詞が一致するのですが、中村氏はそこを何ともしていません、そして「その前年」の「青い紙、赤い紙」は、同じく8月30日付(260)に引いた、静岡県女子師範学校の例でしょうがこれも昭和17年度のことですから昭和17年(1942)とすべきだと思います。
 そして前後1行空け・2次下げで38頁9~12行めに、この静岡県岡女師範学校の例を、最後の回答者の1行を省いて引用します。
 前回の最後に、37頁10行めの「当局はどうやらアメリカのスパイであることをつきとめていたらしい」の件を、ほんの冗談として書いたのだと思うのだけれども、中村氏は或いは大真面目に書いているのかも知れない、として置きましたが、この「さすがの赤マントの怪人も」云々の件を読むと、やはりちょっと冗談めかして、流言を擬人化して書いてはいるもののようです。
 また38頁に戻って、例話の引用に続く13行め~39頁7行め、中村氏は戦時中の「粗悪なスフ製品」や戦後の「「ララ物資」の暖かそうなラシャのマント」に触れ、「筆者が上京した昭和三十年代前半まで*1」は「「純毛」に対する信仰が根強く残」っていた、として、8~10行め、

 そんな衣類不足の時代となっては、ぜいたくな純毛のマントをわざわざ血でよごす「赤/マント」の怪談はすっかり現実性を失って、子供心にも受け入れられなくなったのであろ/う。

と「マント」が「紙」に変化した背景を説明するのです。――要するに、戦争末期でも風船爆弾を作るくらい、まだ紙は足りていて、こうした意識が昭和30年代前半まで続くうちに「赤い紙、白い紙」が定着し「ほぼ全国」に広まった、と見ているようです。
 ここで、8月30日付(260)に見た「暗い情動」の節で「ほとんど同様のディテイルの怪談がほぼ全国に分布」としていたのは、やはり「赤いマントの怪談」だけでなく「赤い紙、白い紙」を引っくるめていたことが漸く明らかになりました。しかし「赤い紙、白い紙」の前年に「青い紙、赤い紙」の例があるから、「赤マント、青マント」昭和10年長野県、昭和14年京城昭和15年福岡県→「青い紙、赤い紙」昭和17年静岡県「赤い紙、白い紙」昭和18年大阪府、と変化したと云う筋の引き方は単純過ぎて吃驚させられます。確かに、他の並べ方よりも蓋然性は高いでしょうけれども。
 なお、この「紙」と「マント」の先後の問題については、日本の現代伝説『魔女の伝言板の三原幸久「III トイレ」にも論じられていますが、三原氏の説は2014年2月2日付(102)に検討したように、サンドウィッチマン富澤たけし(1974.4.30生)にボケでなく突っ込んで欲しいレベルのもので、この『日本の現代伝説』シリーズの1冊め『ピアスの白い糸』207~221頁、池田香代子「解説・現代伝説を語ることばへ向けて」にあるように、218頁17~18行め、メンバー間で「資料や情報/が交換され、それぞれが持ち寄る原稿はきたんのない共同討議に付された」のであれば、何故この三原氏の説明がそのまま通ってしまったのか、私だったら大いに追及するところですが、それとも『日本の現代伝説』のメンバーには三原氏の見解を諒承し得るだけの、根拠となる資料が別に提示されていたのでしょうか。それがあるなら是非とも開示してもらいたいところです。
 それはともかく、中村氏が武田氏と出演した「納涼番組」がいつのことなのか、分からないままですが、或いは2014年1月4日付(074)の最後に言及し、2016年1月15日付「赤い半纏(1)」以下に検討した、稲川淳二がラジオ番組で広めた「赤い半纏」と同様に、或いは中村氏が語ったことで「赤マント、青マント」の revival が起こっていたかも知れません。起こらなかったかも知れませんが。そして、その当座に赤マント流言体験の募集をしていたら、もう少し当時の証言が集められたのではないか、と思うのです。「民話の手帖」の読者でない、より多様な人々から。(以下続稿)

*1:中村氏の経歴は2014年1月3日付(073)に見たように本書のカバー裏表紙に紹介されていましたが、学部までは九州(か、とにかく東京以外の地方)で、それから上京して慶應義塾大学大学院に進んだもののようです。

赤いマント(266)

・中村希明『怪談の心理学』(18)
 昨日は途中から脇に逸れてしまいました。しかし、中村氏及び217~218頁「あとがき」の最後の段落(218頁9~11行め)に見える「資料集めに御協力いただいた講談社資料センターの板谷洋一氏」が資料探索にもう少し手間を掛けてくれていたら、赤マント流言に関するその後の流れも変わっただろうと思うと悔やまれてならないのです*1
 しかし、今更それを求めても詮無いことですから、過疎ブログですが発信だけは続けて見ましょう。しかし、宣伝用に Twitter を始めたのですが、あまり宣伝になっていない上に、赤マントは最近ホラーゲームにもなったようで、いよいよ私の長文レポートなど相手にされずに埋もれてしまいそうですけれども。
 それはともかく、昨日の続きで「報道管制とデマゴーグ」の節の後半、36頁6行めから眺めて置きましょう。まづ9行めまで。

大本営発表」がでたらめだという国民の噂に頭を痛めた軍部と警視庁とは、なんと「赤/マントの怪人」をデマの伝達スピードの実験にかつぎ出すのである。
 早稲田大学心理学の故相場均教授の『うその心理学』(講談社現代新書には、次のような/エピソードが載っている。


 そして、10行め~37頁8行め、前後1行空け・2字下げで『うその心理学』から「デマの伝達スピードの実験」の一節を引用しています。

 講談社現代新書は大きな図書館に行けば開架に並べてありますけれども、初期に刊行されたものは欠けていることが多く、この『うその心理学』は暫く確認出来ずにいました。そのうちに何処の図書館だったかもう忘れたのですが、書棚で見付けて同じ記述がある(1字1句確認した訳ではないのですけれども)ことを確かめたのですけれども、肝腎の、この「実験」のことが出ていた資料が何なのか、示していないのです。いえ、分かっていたら中村氏もそっちを挙げたでしょうけれども。
 それはともかく、軍と警視庁が「デマの伝わる速さとプロセスを研究しようとして、行なった」という「実験」の内容も、昭和18年(1943)5月に、札幌駅の待合室で、実は「刑事」である「ふたりの男」に「赤マントを着て、ホウバのげたをはいた米人があらわれて……」などと云う「ばかげたことをまじめに」「ひそひそと」「話し合」わせ、その「「赤マント」のデマが東京に着」くまでの時間を計った、と云うのですが、どうも、本当にこんなことをしたのかどうか、他に傍証も得られませんので、ちょっと信じ難いのです。結果は「当時、札幌・東京間」の所要時間と同じ「二十四時間」だったと云うのですが、待合室で訳ありげな「ふたりの男」が、わざとらしく変な話をしていたのを気にした人が「汽車に乗って東京に向か」い、東京でその話を誰かにしたと云うだけのことで、この実験結果にどれほどの意義が認められるのか、甚だ疑問です。ポドンヨード液でうがいをすればウィルスが減るとか云う実験と同じくらい当り前過ぎて意味が分かりません。札幌市内にデマを広めて、それがいつ東京に出現するかを見張っていたと云うのであれば、まだ分かるのですけれども。――いえ、「二十四時間後」に「東京」に届いたことはどうやって確かめたのでしょう*2。どうも、この「実験」の話は、そのまま鵜呑みに出来ないように思えるのです。
 そんな訳で、引用は『うその心理学』を借りる機会があれば果たすことにしますが、ちょっと扱いづらい例なのです。
 中村氏は引用に続けて、37頁9~12行め、

 このころには、小学校のトイレに出現する「赤マントの怪人」はすっかり有名になって/いて、当局はどうやらアメリカのスパイであることをつきとめていたらしい。
 この「赤マントの怪人」は終戦後もそのまま日本に棲みついて、「赤いチャンチャンコ」/の怪談のルーツになるのである。

と述べています。
 私は最初にこれを読んだとき、冗談めかしてこんな風に書いたのだろうと思いました。ちょっとしたギャグなのだろうと。‥‥しかし、中村氏の、自分の知り得た(こう云っては何ですが、決して多くはない)例を、全て、他の地域にまで、長い期間にわたって影響を及ぼしたかのように評価してしまう姿勢――9月1日付(262)に見た、赤マント流言とは関係なさそうな『現代民話考』の松ヶ枝小学校の「マントの男」の噂を「原話」扱いしたり、大久保小学校の例を9月3日付(264)に見たように恣意的に取り扱って小平事件に絡めたりしているのを見て行くと、どうも、大真面目にこのように主張しているのではないか、と思われて来るのです。(以下続稿)

*1:私は自分の手柄云々よりも、調査・研究を組み立てて行く際にノイズが混ざるのが嫌で堪らないのです。まぁ、当ブログの記事を幾つか読んだことのある人なら、しばしば私が下らぬ確認作業にかまけていることから、察せられると思いますが。

*2:9月24日追記】改札から出て来る乗客1人1人に訊問したのでしょうか。――それなら、わざと聞かせるように喋っていたのだから聞いていた人がいても当然のことです。それとも、人を東京駅のあちこちに配置して、この話題を誰かがするのを待っていたのでしょうか。いづれにしても、御苦労なこってす、としか言い様がない。

赤いマント(265)

・中村希明『怪談の心理学』(17)
 昨日の続きで、続く35頁9行め「報道管制とデマゴーグ」の節を見て置きましょう。まづは前半、35頁10行め~36頁5行め、

 戦時色が強まるにつれて、軍需工場の多かった北九州の小学校でも、「敵間諜*1の謀略によ/る『流言蜚語*2』に惑わされないように」とのきついお達しが先生の口を通じていい渡され/た。こうした軍部の報道管制が強くなるほどデマゴーグは猛威をふるうことになる。
 ロンドンがドイツ空軍の猛爆にさらされていた危機に、恐怖デマがほとんど起こらなか/った理由は、英国戦時情報局が「国民に正確なニュースを迅速かつ完全に提供する」とい/うデマ防止の社会心理学的鉄則を厳守していたからだ。国民が政府から最悪な情況につい/【35】ても真実を知らされていると確信していれば、内心の不安を静めるためにかえって恐怖を/あおる「恐怖デマ」は起こらない。
 この英国戦時情報局の基本方針とは対照的に「退却」を「転進」といいくるめた「大本/営発表」は、デマの心理学からみると反面教師だった。したがって、広島、長崎の原爆投/下すら知らされない戦争末期には、数々の荒唐無稽な「恐怖デマ」が乱れとんだ。


 中村氏が現在の北九州市の小学校に通っていたのは2014年1月8日付(078)及び2014年1月7日付(077)に見たように、京城から転校して来た昭和15年(1940)から昭和19年(1944)3月の卒業までです。
 「恐怖デマ」に関する同様の見解は、赤マント流言の直後に夙に提示されていました。すなわち、昭和14年(1939)4月号の「中央公論」掲載の大宅壮一「「赤マント」社會學/活字ヂャーナリズムへの抗議」の「三」章について、要約を2013年11月25日付(035)に示して置きました。この大宅氏の評論は、中村氏が本書を執筆する以前にも、既に昭和63年(1988)に小沢信男が、2016年8月2日付(152)等に見たちくま文庫『犯罪百話 昭和篇』に収録しており、小沢氏よりやや早く鷹橋信夫が昭和61年(1986)に、2015年4月30日付(144)に見た『昭和世相流行語辞典』に利用、指摘しており、2013年12月29日付(069)に見た『大衆文化事典』にも、これは平成3年(1991)刊ですが、同様の項目を執筆しております。これは恐らく2016年9月15日付(153)に見たように、昭和60年(1985)刊行の『大宅壮一文庫雑誌記事索引総目録』によって検出したものと思われます。いえ、2014年11月3日付(141)に挙げた、scopedogのブログ「誰かの妄想・はてな版2014-10-26「赤マントは復活するか」に引用されている「「赤マント」の怪」は、「20世紀の歴史」という雑誌の昭和50年(1975)11月5日発行「Vol.89 日中戦争2」に出ているようです。恥ずかしながらまだ見に行っていないのですけれども。
 私は国立国会図書館での検索によって昭和14年(1939)であることを知った後発組で、かつ、資料の多くをネットを活用して検出しましたから(昔ながらの文献を辿って行く手法で見付けた資料も少なからずありますが*3)偉そうなことは云えません。しかし、これら先達が蔑ろにされて、未だに昭和11年だとか青ゲットの殺人事件に由来するなどと云う妄説を垂れ流す輩を目にすると、正直複雑な気分にならざるを得ないのです。――正解は、とっくの昔に示されているのに、と。そして、中村氏が本書執筆当時、これらのうちのどれかに引っ掛かっていたらと思うのです。
 それはともかく、中村氏の記述に戻って戦中の「恐怖デマ」にまで話を広げると収拾が付かなくなりますし、しっかりした研究もありましょうからここでは深入りしません。(以下続稿)

*1:ルビ「かんちよう」。

*2:ルビ「 ひ ご 」。

*3:新聞記事の大半は国立国会図書館マイクロフィルムを繰って見付けましたけれども。

赤いマント(264)

・中村希明『怪談の心理学』(16)
 9月1日付(262)の続きで、「なぜ赤マントの怪人になったか」の節の最後を見て置きましょう。34頁13行め~35頁8行め、

 ではなぜこの時期にトイレの赤マントの恐怖デマが成立したのだろうか。
 しのびよる戦争の不安は、まず感受性の鋭い子供たちのルーマーに現れて、戦時色が強/【34】まるにつれて、しだいに増幅の度を強めていったのではなかろうか。
 なぜなら、昭和十一、二年の「恐怖デマ」とまったく同じ情景が、それから八年後の東/京大空襲によって現実のものになったからだ。赤マントの怪人ならぬ、稀代の殺人鬼小平/義雄は、当時海軍衣糧廠のボイラーマンをしていたが、挺身隊の女子学生を強姦殺人し、/黒こげの屍体がゴロゴロしている焼け跡の防空壕にその死体を隠して立ち去った。
 だとすれば、昭和十一、二年に小学校の女子トイレで広がった「赤マント」の恐怖デマ/は、来たるべき大戦によって焦土となった東京の姿を、あらかじめ映してみせた鏡だった/のかも知れない。


 「戦時色が強まる」と云うのなら、昭和11・12年とするより昭和14年の方が当て嵌まりそうですが、それはともかく、中村氏はここで、昭和20年(1945)5月25日に始まる小平事件の小平義雄(1905.1.28~1949.10.5)を持ち出します。海軍第一衣糧廠のあった品川区は、前日の5月24日に空襲に遭っていました。そして5月25日は青山などが焼け野原になった山の手空襲がありました。その「黒焦げの屍体がゴロゴロしている」状況を、北川幸比古の談話にあった「あちこちに死体があって軍隊、警察がかたづけたという」状況と、重ね合わせている訳です。
 しかしながら、これも、確かに北川氏の談話に依拠する限りでは成り立ち得る想像ではありますが、当時の報道や、他の人の回想などを幾つか集めて見た上では、やや特殊な証言であったと云わざるを得ません。北川氏以外にも「あちこち」で人が襲われて、何人かが殺されたと云う証言はあるのですが「軍隊、警察がかたづけたという」程の犠牲者が出たと云う話は、今のところ他に見付けておりません。すなわち、やや極端な例を捉えて、これを「空襲」下に生まれた「稀代の殺人鬼」に類えている訳です。
 しかし、やはりおかしいのは、北川氏の談話が「あちこち」つまり人々は屋外で赤マントに襲撃されたと思われるのに、中村氏はこれを「学校のトイレ」、ここでさらに限定して「小学校の女子トイレでひろがった」と決め付けてしまうのです。いえ、北川氏も「誰れも学校の便所に入れなくなってしまった」と言っていて、便所でも何かあった風ではあるのですが、中村氏はこの便所の方ばかり強調して、何故か「あちこち」の方をスルーしてしまいます。スルーしているのに「戦争の不安」が「現実のものになった」と云う文脈では、ちゃっかり「あちこち」に「黒こげの屍体がゴロゴロしている」イメージを活用するのです。
 かなりの御都合主義と云うべきでしょう。
 さて、ここで中村氏は急に「小学校の女子トイレ」と云い始めるのですが、これについては48頁2行め「白い手の恐怖と思春期の性不安」の節が、中村氏がこのように決め付けた理由になっていると思われますので、追って触れることにしたいと思います。

赤いマント(263)

・中村希明『怪談の心理学』(15)
 本書の赤マント流言関連の記述を徹底的に検討して見る、と云う課題を私は長らく後回しにしてきたのですが、やって見てこれまで甚だ気乗りしなかった理由が分かりました。――既に嫌気が差しているので「大阪から東京」説の確認が済んだこの辺りで切り上げてしまおう、と思ったのですが、乗り掛かった船ですし、今後、他の人の説を検討する際に関連して来る可能性もありますので、関係しそうな箇所は一通り眺めて置くこととしましょう。
 しかし、そのまま続ける気分にはなれないのでここで一息ついて、先に中村説の問題点について纏めて置きましょう。最後に指摘したのでは何時のことになるか分かりませんので、ただでさえ読者の少ない過疎ブログなのに、長々苦労して嫌々やった上に、誰も読んでくれなくなってしまいます(笑)。――それはともかく、やはり、中村氏の弱点は、その論証の粗さにあります。少ない資料から筋を引いて、その、思い付きに近い考えに全ての材料を流し込もうとしています。もちろん、それなりに説得力はあります。しかし、検証に堪え得るようなものではありません。
 確かに、インターネットの発達した現在、検索によっていながらにして情報が蒐集出来るようになりました。参考になりそうな資料が、2014年1月5日付(075)に見たように『現代民話考』くらいしかなかった当時を、今から批判するのはどうもフェアでないような気がしてしまいます。
 しかし、今でも同じ材料から似たような判断をしてしまう人がいるのを見、そして中村説及びその影響下に生み出された説明が生き残っているのを見ると、きちんと批判をして、退場願わない訳には行かないと思うのです。それこそが後学の責務でしょう、スルーしたり自分に都合の良い箇所のみ摘まみ食いするのではなく。
 それでは本題に入りましょう。中村氏は『現代民話考』に自分の体験を加味して自説を組み立てています。――『現代民話考』が「学校にまつわるいっさいの怪談のたぐいをテーマ別に、その流行時期や分布地域まで詳細に記録した‥‥唯一の総合的文献」であるのは、確かにその通りなのですが、この本は「赤マントの怪談」を検討するには不適当であったと云わざるを得ません。
  何故か昭和14年の赤マント流言に関する報告が、1例しか得られなかったこと。
  しかもその報告が、時期を「昭和11、12年頃」と誤っていたこと。
 昭和14年(1939)の赤マント流言については、当ブログの過去の記事に当時の新聞・雑誌記事を多数、それから小沢信男田辺聖子等の小説、吉行淳之介黒田清等の回想があることを紹介して来ました。ところが何故か「現代民話考」の情報蒐集の呼び掛けには引っ掛かって来ませんでした。或いは、前回見た中村氏の見当とは違って、実際の赤マント流言は「学校のトイレに‥‥限定され」ていなかったから、『現代民話考』の「学校の怪談」募集の呼び掛けに殆ど報告がなかったのかも知れません。その貴重な(?)1例、北川幸比古の談話も、2013年10月24日付(003)に考証したように、肝腎の時期が誤っているのです。
 それから、どうも奇妙なのは、中村氏が8月30日付(260)に見たように「赤マントの怪談」の時期を「昭和十一年ごろ」から「昭和二十年の体験談」としていることです。――確かに、『現代民話考』第一章「怪談」の「六、便所にまつわる怪」の「五 赤いはんてん・マント・手袋」に載る2例は、2014年1月12日付(082)及び2014年1月11日付(081)に見たように、昭和10年度と昭和20年(1945)のものです。
 然るに、『現代民話考』がもう1箇所、赤マントの話を収録している、第一章「怪談」の「二十、学校の妖怪や神たち」の「七 赤マント・青いドレスの女など」には、問題の北川幸比古の談話の他に、2014年1月9日付(079)に見たように「出た」と云うだけですが、昭和50年代以降のものと思われる千葉県市川市の私立小学校の例と、昭和25年(1950)の福井県三方郡山東村(現・美浜町)の小学校の例が出ているのです。「青マント」との選択を迫るような話が存したのかは分かりませんが、両方とも「学校のトイレに‥‥限定され」た話です*1。何故中村氏はこれらの話を無視したのでしょうか。
 一方で、私は敢えて赤マント流言関連の話と見做さなくても良いと思っている、昭和10年(1935)頃の松ヶ枝小学校のマントの男の話は採っていて、しかも、前回見たように「原話」扱いしているのです。――2014年1月10日付(080)の最後に述べたように、「七 赤マント・青いドレスの女など」は数が集まらなかった話を寄せ集めたような按配で「青いドレスの女」と並べてあるように「赤マント」だけを集めた項ではないと思われるのですが。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 まだまだ問題とすべき箇所はありますが、差当り今回は、赤マント流言を上手く集めることが出来ていなかった『現代民話考』に依拠したことと、それを中村氏がかなり恣意的に扱っていることを指摘するに止めて、また本文の検討に戻りたいと思います。(以下続稿)

*1:その意味では、『現代民話考』が「青マント」云々の件がなくても「六、便所にまつわる怪」の「五 赤いはんてん・マント・手袋」に含めてしまえば良かったと思うのですが、――この分類の二重基準が(繰り返しになりますが)『現代民話考』の重大な欠点の1つだと思うのです。

赤いマント(262)

・中村希明『怪談の心理学』(14)
 さて、中村氏は昨日見たように、赤マント流言の時代背景を纏めた上で、この節の題である「なぜ赤マントの怪人になったか」に話を進めて行きます。33頁6~8行め、

 こうした少年少女の空想の世界のなかで、トイレの「赤マントの怪談」が定着していく/過程を検証してみよう。なぜなら、筆者ら小学生をふるえあがらせた赤マントの怪人は、/はじめはトイレとはまったく関係のない別の場所に出現していたからだ。


 そこでどんな例を持ち出したのかと云えば、9~12行め(1次下げ・前後1行空け)に2014年1月10日付(080)に見た、『現代民話考』の大阪市の松ヶ枝小学校の例を引用するのです。
 そして、13行め~34頁3行め、

 戦時中の市民生活をあつかった向田邦子の作品には、いかめしい顔をして「トンビ」と/いうすそ広がりの和外套を着こんだ大人たちの姿が出てくる。また、弊衣破帽に高下駄を/【33】はいた旧制高等学校生たちも道中合*1に似た黒いマントを得意げにひるがえして街を闊歩/していたから、暗がりにマントを着てたたずんでいるわけありげな大人の姿は、子供たち/の不安な目に「マントの怪人」として映じたものだろう。

と、マント姿の大人が暗がりにいたのを見た子供たちが、これを「怪人」と取ったのが、そもそもの起こりだろうと推測するのです。
 この松ヶ枝小学校の例については、2014年2月23日付(123)に見たながたみかこ、2019年11月30日付(217)2019年12月1日付(218)及び2019年12月18日付(220)に見た朝里樹も、「赤いマント」もしくは「赤マント」の項に活用しています。ながた氏の例を見たとき、私は中村氏をすぐに想起したのですが、朝里氏のときは忘れておりました。ただ、ながた・朝里の両氏とも、参考文献に『怪談の心理学』を挙げておりませんので、中村氏の直接の影響ではなくて、朝里氏の場合は『現代民話考』から中村氏と同じような筋を引いてしまったのでしょう。そしてながた氏の場合は参考文献に『現代民話考』を挙げておりませんから、中村氏の説を承けた誰かの説を参照したのでしょう。
 しかしながら、私が初めてこの例を取り上げた2014年1月10日付(080)にも、

‥‥確かにマントの怪しい人です。但し「出る」というだけで、ただの変質者かも知れません。

と述べて置いたように、これを赤マント流言と結び付けるのはかなり無理があるのではないでしょうか。いえ、先程引用した箇所に中村氏自身が述べているように、当時は「マントの怪人」の候補になりそうな大人たち・旧制高等学校生が実際に「街を闊歩していた」のですから。そういう人が「暗がり」にいれば、それは直ちに、子供たちにとって恐怖の対象となったことでしょう。
 そして、34頁4~6行め、

 この昭和十年の大阪市での原話が、わずか一、二年たって東京に伝わると「赤マントの/怪人」が人を殺すという恐怖デマにまで増幅される。しかも赤マントの怪人の出現場所も、/子供が無防備な状況におかれる学校のトイレにこのとき限定されるのである。

として、7~12行め(1次下げ・前後1行空け)に、2013年10月24日付(003)に見た、北川幸比古の赤マント流言体験を引用するのです。――中村氏は「あちこちに死体があって」とあるのに何故か「学校のトイレにこのとき限定される」と決め付けてしまいます。それに反撥するかのように、朝倉喬司はわざとこの例の「誰れも学校の便所に入れなくなってしまった」の件りを自身の論考からは省略してしまうのです。今からすると、北川氏の話を報告した望月氏には、もう少し細かい状況まで聞き出して置いてもらいたかった、と思うばかりです。
 それはともかく、中村氏はここで松ヶ枝小学校の例を「原話」と位置付けてしまうのですが、自身がその解釈に於いて述べているように「マントの大人+暗がり=恐怖」と云う図式は、これに限らず何処にでも起こり得たことで、かつ、たったこれだけの話が大阪から東京まで伝播する程の力を持ったでしょうか。『現代民話考』に並べて載ったから、うっかりこのような筋を引きたくなってしまったので、松ヶ枝小学校の例がそこまでの影響力を持ったとは、常識的に考えて有り得ないと思うのです。
 そもそも、前回見た、長野県の豊科小学校の例が「昭和十一年」ではなく実は「昭和十年度」なのですから、松ヶ枝小学校の「昭和十年頃」と同時期のこの時点で既に、長野県松本市近郊の田舎町で、便所を舞台にした「赤マントの怪談」は行われていた訳です。彼此、この辺りの中村氏の筋の引き方は強引で、とてもそのまま依拠すべき説明たり得ていないことは明らかでしょう。
 なお、松ヶ枝小学校の例については、別の解釈、2019年7月15日付(203)に述べたように、実は時期が違っていて、昭和14年(1939)6月下旬から7月上旬に掛けての大阪での赤マント流言の、記憶の断片ではないか、と云うことも考えています。しかし、その場合、話者の生年及び在学時期が判明しないことには、これ以上この可能性で話を進める訳には行きません。――ですから他に傍証の出ない限りは、私はこの例については、ただの変質者情報の可能性が高い、と見做して置くこととします。(以下続稿)

*1:ルビ「ガッパ」。

赤いマント(261)

・中村希明『怪談の心理学』(13)
 中村氏は、鳥越信松谷みよ子に語り、松谷氏が『現代民話考』に「学校の怪談」を取り上げる原点になった、旧制姫路高等学校の寮に伝えられていた怪談「あかずの便所」から、「赤マントの怪談」へと筋を引こうとしているのですが、今回「あかずの便所」にまで触れていては長くなりますので、これは別に考察することとしましょう。以前から私は、この旧制姫路高等学校の話を特別視する傾向に疑問を覚えていまして、2017年1月25日付「吉田悠軌『ホラースポット探訪ナビ』(1)」にて、その過大評価を批判したことがありました。
 確かによく出来た話です。しかしそのことと発生・記録とは、2011年5月18日付「明治期の学校の怪談(4)」にも述べたようにまた別の問題であるはずです。同様に、昨日取り上げた、長野県南安曇郡豊科町の例、疎開先の長野県北佐久郡小諸町で転校生から聞かされた話、そして静岡県女子師範学校大阪市木川国民学校の例も、たまたま後年、「現代民話考」と云う企画に接したことで報告され、記録として残された例なのであって、しかも40年ほど経過して後の回想なので、そのことを勘案して記憶違いや記載ミスが存しないか、一通り点検した上で使用すべきものなのです。
 中村氏の考察は、その点に頓着していないところがどうしても気になります。――しかし、2014年1月4日付(074)及び2014年1月7日付(077)2014年1月8日付(078)に見た昭和14年(1939)及び昭和15年(1940)の中村氏本人の回想、それから小説ですが2013年12月25日付(065)に見た中島公子「坂と赤マント」――これが、2013年12月21日付(061)に見た、娘の中島京子直木賞受賞作『小さいおうち』の昭和16年(1941)赤マント流行説の根拠になっているらしいのですが、とにかく中村氏の指摘する、昭和10年代にこの手の話が広まりつつあったらしいことの傍証にはなるでしょう。
 さて、中村氏は「「あかずの便所」の怪談」の節を、22頁6~7行め、

 学校のトイレという場所と怪談とを結びつけたのは戦前の全寮制の高等学校だったとい/う説がある。‥‥

と書き出しています。もちろん、もっと単純な「カイナデさん」のような怪談の方が先行していたろうと思うのですが、中村氏はそういうことにして、昨日見た「暗い情動」の節の後半では、「デマゴーグ」の「原動力」に「集団の意識下にとぐろをまいている不安やルサンチマン」を指摘した上で、その最後の段落(32頁4~6行め)で、

 旧制高校の「あかずの便所」にはじまり、小学校の「赤マントの怪談」につながる戦中/のトイレの怪談の系譜こそは、やがて戦場や軍需工場にかり出されていく学生たちの暗い/情動の発散ではなかっただろうか。

と位置付けるのです。
 そして、続く32頁7行め「なぜ赤マントの怪人になったか」の節で、その冒頭、8~9行め、

 しかし、バンカラ旧制高等学校生の肝だめしの怪談が、なぜバタ臭い小学校の「赤マ/ントの怪人」に脚色されたのだろうか。

と問題提起するのですが、無理に「旧制高等学校生の肝だめしの怪談」から「赤マントの怪人」に筋を引かなくても良いのではないでしょうか。それこそ、8月14日付(256)に見た、井上雅彦「宵の外套」の、京都の友人が持ち出す「カイナデさん」辺りから筋を引く方が自然です。この「カイナデさん」を「赤い紙、青い紙」の源流と見る説は、この小説の発明ではない(らしい)ので、これも別に報告することとします。
 それはともかく、中村氏はまづ、当時の少年少女の接していた娯楽メディアを「赤マントの怪談」の背景として指摘します。32頁10行め~33頁5行め、

 テレビや少年マンガ雑誌などのない戦前には、講談社の「少年倶楽部」が全国の少年・/少女の想像力をかきたてる唯一のメディアであり、ピークだった昭和十一年にはその発行/部数は実に四十五万部に達していた。
 探偵小説作家江戸川乱歩がこの少年倶楽部に「怪人二十面相」の連載を始めたのがまさ/にこの年なのである。神出鬼没の怪人二十面相は名探偵明智小五郎にその正体を見破られ/ると、たちまち大きな黒マントをひるがえして逃れ去る。【32】
 このころ、海の向こうのアメリカでも、真っ青なタイツに深紅の裏の大きなマントを翼/のように広げた「スーパーマン」が漫画の主人公として登場していた。
 また、ファミコンもテレビもない戦前の子供らにとって、唯一の放課後の娯楽と社交の/場であった紙芝居のコンテにも、金色のマントをひるがえす「黄金バット」の怪人が大空/をかけていた。


 私も赤マントの由来について、実は調査開始当初から少し当たってみたのですが、どうも、これと云うものに尋ね当たらないのです。ですから中村氏の挙げた「怪人二十面相」や「黄金バット」も、何らかの影響を与えているかも知れない、とは思うのですが、積極的に関連付けて論じようと云うところまで、どうしても踏み込めません。――しかしもうそろそろ、従来の由来説がどうして私を乗り気にさせないのか、根拠を示して述べて置く時期なのかも知れません*1。(以下続稿)

*1:いえ、これまでだって度々述べて来たのです。ですから、こんな思わせ振りな書き方なぞせずに、――赤マント流言を正確に把握しないまま、未だに思い付きを述べる人が後を絶たないので、もう1度改めて述べざるを得ない、と云った方が正確でした。

赤いマント(260)

・中村希明『怪談の心理学』(12)
 昨日の続き、と云うか2014年1月8日付(078)の続きで、中村氏の描いた赤マント流言の流れを、30頁12行め「暗い情動」の節から順を追って見て行きましょう。
 中村氏はまづ、30頁13行め「 この「赤マント」のルーツを『現代民話考』より考察しよう。」として、14行め~31頁4行め、前後1行空け・1字下げで長野県南安曇郡豊科町(現・安曇野市)の豊科小学校の話を引きます。この話は2014年1月12日付(082)に引いてありますが、中村氏は冒頭の「○」と、回答者(話者)等の1行を省略しています。なお、豊科町は平成17年(2005)10月1日に周辺の町村と合併して安曇野市となっているのですが、廃止の時点で町立の小学校が、豊科北小学校・豊科東小学校・豊科南小学校の3校ありました。このうち、豊科北小学校は昭和30年(1955)に豊科町が併合した南穂高村、豊科東小学校は同じく東筑摩郡上川手村であった場所にあるので、豊科南小学校が、塩原氏が在学した、戦前の豊科町にあった豊科小学校を継承した小学校のようです。但し場所は違っているようです。
 そして31頁5~8行め、

 この昭和十一年ごろの体験談が『現代民話考』に載っている「赤マントの怪談」のもっ/とも古いものである。
 ほとんど同様のディテイルの怪談がほぼ全国に分布している。もっとも新しい「赤マン/トの怪談」は終戦の昭和二十年の体験談として採録されている。

としています。「昭和二十年の体験談」は、豊科小学校の話の1つ前に載っている、2014年1月11日付(081)に引いた話だと思いますが、もちろん、こんな体験を実際にする訳がないので、実際には、昭和20年(1945)2月に転校生に聞かされた話と、それに伴う回答者の想像です。それから「ほとんど同様のディテイルの怪談がほぼ全国に分布している」のは確かにそうなのですが、赤マント・青マントの選択を迫られる話はこの2例のみで、他は「赤い半纏」や、一番多いのは「赤い紙、青い紙」の類なのです。それから、細かいことですが「昭和十一年ごろ」は2014年1月12日付(082)に述べたように、昭和10年(1935)頃、とするべきでしょう。
 従って、31頁9~11行め、

 したがって、この「赤マントの怪談」は日中戦争の前年の昭和十一年から太平洋戦争へ/としだいに戦雲が拡大していく不安な時代に起こった学童間のデマゴーグだったことが明/らかである。

と結論されても、かなり強引な印象を受けてしまいます。ただ「赤い紙」の類話も含めれば、この類の話が中村氏の指摘する時期に広がりを見せていたことは、確かなようです。
 すなわち、『現代民話考』単行本82頁6行め〜87頁13行め「二 赤い紙・青い紙」=文庫版99頁13行め〜105頁14行め「赤い紙・青い紙」15話のうち、2例が戦中まで遡る話なのです。
 8例め(単行本84頁13~17行め、文庫版102頁7~11行め)、引用の要領は2014年1月9日付(079)に同じです。

静岡県岡女師範学校。昭和十五年入学、三年生の頃の話。トイレに入って紙が|なくて困っ/ていると、どこからか、「青い紙がいいか、赤い紙がいいか」という声|が聞えてきたので、「赤/い紙がいい」と答えたら、その人は真赤に染って死んでし|まったという話です。学校での噂で/す。
 回答者・吉田加奈江(東京都在住)


 「三年生」とありますから、吉田氏は昭和17年度、高等小学校(2年)卒業を入学資格とする5年制の本科第一部の生徒だったのでしょう。すなわち、今の高校2年生に当たる学年です。
 次に12例め(単行本85頁16行め~86頁3行め、文庫版103頁13行め~104頁1行め)。

大阪府大阪市立木川小学校。昭和十七年入学、二十四年卒業。二年生の頃の話。小|学校の女便/所にはいると、どこからか「赤い紙やろか、白い紙やろか」という女|の声が聞えてくる。その/【85】とき返事をしなければ何もおこらない。もし返事をしたら、|「赤い紙やろか」のときは下から/お尻を舌でなめられるし、「白い紙やろか」のとき|は下から手でなでられるという。【103】
 話者・同級生、姉。回答者・萬屋秀雄鳥取県在住)


 入学から卒業まで7年間になってしまいますが、何か事情があったのか錯誤なのかは分かりません。萬屋秀雄(1935生)は鳥取大学教育学部教授だった人で、早生れでなければ昭和17年(1942)4月に小学校に入学しているはずで、入学時期は合っています。してみると「二年生」は昭和18年度のことと見て良いでしょう。
 大阪市立木川小学校は大阪市淀川区木川東3丁目7番32号にあって、昭和11年(1936)11月1日に大阪市十三尋常小学校(現在の大阪市立十三小学校)より分離して大阪市木川尋常小学校として開校した、当時としては新しい学校でした。ちなみに「十三」は番号ではなく「じゅうそう」と読む地名で、当時の大阪市東淀川區木川町は、東淀川區十三の東北東に隣接しておりました。萬屋氏が入学したときは大阪市木川国民学校で、卒業前に現在の名称になっております。(以下続稿)