瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

石崎直義 編著『越中の伝説』(3)

 昨日の続きで、2章め「歴史伝説」について。61頁上段、中央に大きく「歴 史 伝 説」。下段1行めに2行取り1字下げでやや大きく1節め「神  話」。
・1節め、61頁下段~65頁下段1行め「神  話」
【1】「 立山と白山の背くらべ 
   61頁下段2行め(中新川郡立山町立山) ~62頁上段8行め。
【2】「 桑山・鍬崎山 *1
   62頁上段9行め(西砺波郡福光町川合田桑山*2・/上新川郡大山町鍬崎山) ~下段5行め。
【3】「 姉倉比売 *3
   62頁下段6行め(上新川郡大沢野町舟倉) ~65頁上段1行め。
    《19》63頁上段「姉倉比売神社」。
【4】「 クロッポコ人 
   65頁上段2行め(東砺波郡利賀村細島) ~下段1行め。
・2節め、65頁下段2行め~67頁下段「古代のころ」
【1】「 猿丸太夫の墓 *4
   65頁下段3行め(婦負郡山田村数納*5) ~66頁上段8行め。
    《20》65頁下段左(8行分)「山田村の猿丸太夫の墓」。
   66頁上段9行め(婦負郡八尾町小井波) ~16行め。
【2】「 西行庵旧跡 *6
   66頁下段1行め(砺波市般若、三谷) ~16行め。
【3】「 兼好法師の夢塚 *7
   67頁上段1行め(東砺波郡福野町安居*8) ~下段3行め。
【4】「 宗祇法師塚 *9
   67頁下段4行め(高岡市二上、黒田) ~15行め。
・3節め、68~73頁下段9行め「平家伝説」
【1】「 俊 寛 塚 *10
   68頁上段2行め(小矢部市宮島、久利須) ~69頁上段1行め。
    《21》68頁下段「久利須の俊寛塚」。
【2】「 比丘尼塚・姫塚 *11
   69頁上段2行め(小矢部市宮島、久利須) ~下段1行め。
【3】「 秘境五箇山 *12
   69頁下段2行め(東砺波郡平村・上平村・利賀村)*13 ~16行め。
    《22》70頁上段「平家伝説の里・平村相倉の合掌集落」。
    《23》70頁下段「五箇山の麦屋踊」。
【4】「 土山の里の草分け *14
   71頁上段1行め(西砺波郡福光町土山) ~11行め。
【5】「 落人を助けた猟師 *15
   71頁上段12行め(東砺波郡平村下梨) ~72頁上段3行め。
【6】「 平家の遺宝 
   72頁上段4行め(西砺波郡福光町臼中) ~下段8行め。
【7】「 観音滝・俊寛杉 
   72頁下段9行め(小矢部市宮島、別所) ~73頁上段5行め。
    《24》73頁上段右(8行分)「宮島峡の俊寛杉」。
【8】「 小督局の墓 *16
   73頁上段6行め(小矢部市子撫、西中野*17) ~下段9行め。
・4節め、73頁下段10行め~75頁「木曽義仲伝説*18
【1】「 弓の清水 *19
   73頁上段11行め(高岡市中田、常国) ~74頁上段9行め。
【2】「 八幡神の加護 *20
   74頁上段10行め(小矢部市埴生、砺波山*21) ~75頁上段8行め。
    《25》74頁下段「源平古戦場のくりから山馳込谷」。
【3】「 源 氏 谷 
   75頁上段9行め(西砺波郡福光町太美山、刀利*22) ~下段4行め。
【4】「 巴塚の一本松 
   75頁下段5行め(西砺波郡福光町天神町) ~16行め。
・5節め、76~79頁下段7行め「義経伝説」
【1】「 義経落胤 *23
   76頁上段2行め(西砺波郡福光町高窪) ~下段3行め。
   76頁下段4行め (東砺波郡井口村大野*24) ~77頁上段2行め。
【2】「 義経雨晴石 *25
   77頁上段3行め(高岡市太田、島尾) ~下段6行め。
    《26》77頁上段左(8行分)「義経雨晴石」。
【3】「 如 意 渡 *26
   77頁下段7行め(高岡市伏木、六渡寺*27) ~78頁下段1行め。
【4】「 名残りの藤だんご *28
   78頁上段2行め(富山市水橋、常願寺川口、/西岸) ~79頁上段9行め。
【5】「 弁 慶 網 
   79頁上段10行め(滑川市高塚の浜) ~下段7行め。
・6節め、79頁下段8行め~87頁下段8行め「武将・城址
【1】「 坂田金時の後裔 *29
   79頁下段11行め(上新川郡大沢野町下タ*30) ~80頁上段15行め。
【2】「 渡辺綱の後裔 
   80頁下段1行め(小矢部市南谷、峠) ~12行め。
【3】「 北条時頼越中行脚 【西明寺湯】 *31
   80頁下段13行め(西砺波郡/福岡町西明/寺、寺内) ~81頁上段5行め。
【4】「 【上古の高瀬神社
   81頁上段6行め(東砺波郡井波町高瀬) ~16行め。
    《27》81頁下段「越中一ノ宮・高瀬神社」。
【5】「 【時頼の受難】
   82頁上段1行め(婦負郡婦中町鵜坂) ~下段5行め。
【6】「 【鎌倉村】
   82頁下段6行め(婦負郡山田村鎌倉) ~15行め。
  ※ 目次では「北条時頼越中行脚」の1行に続いて1字下げで「西明寺湯」以下4項。
【7】「 火牛作戦に敗れた謙信 
   83頁上段1行め(中新川郡立山町高原/野) ~下段8行め。
【8】「 冬のざらざら峠越え 
   83頁下段9行め(中新川郡立山町立山) ~84頁下段7行め。
    《28》84頁上段右(8行分)「ざらざら峠」。
【9】「 成政の槍の先水 *32
   84頁下段8行め(西砺波郡福光町祖谷山中*33) ~85頁上段3行め。
【10】「 鎧 懸 藤 *34
   85頁上段4行め(西砺波郡福光町小二又*35) ~下段7行め。
【11】「 剣士佐々木小次郎異聞 
   85頁下段8行め(中新川郡立山町芦峅)*36 ~86頁下段10行め。
【12】「 宮崎城陥落の秘密 
   86頁下段11行め(下新川郡朝日町宮崎) ~87頁下段4行め。
    《29》87頁上段「宮崎城跡」。
   87頁下段5行め (魚津市松倉、鹿熊山) ~8行め。
・7節め、87頁下段9行め~93頁下段2行め「名人・超人」
【1】「 額を逃げ出した馬 
   87頁下段10行め(東砺波郡福野町安居) ~88頁上段10行め。
【2】「 絵から脱け出す幽霊 
   88頁上段11行め(婦負郡八尾町八尾) ~下段10行め。
【3】「 脱けて出た天井絵の龍 
   88頁下段11行め(富山市中島) ~89頁上段4行め。
   89頁上段5行め (下新川郡入善町新屋) ~9行め。
【4】「 水吹き龍 
   89頁上段10行め(魚津市紺屋町) ~下段9行め。
【5】「 山田男と白滝姫 
   89頁上段12行め(婦負郡山田村鎌倉) ~90頁下段14行め。
【6】「 越中八百比丘尼 *37
   90頁下段15行め(黒部市村椿) ~91頁下段16行め。
   91頁上段1行め (中新川郡立山町下田*38) ~下段7行め。
【7】「 火土輪権兵衛 *39
   92頁下段8行め(婦負郡八尾町西町) ~93頁下段2行め。
・8節め、93頁下段3行め~95頁上段6行め「長者伝説」
【1】「 細越の長者 
   93頁下段4行め(下新川郡宇奈月町下立*40) ~94頁上段16行め。
【2】「 七山の長者 
   94頁下段1行め(砺波市般若、別所) ~95頁上段6行め。
・9節め、95頁上段7行め~101頁上段12行め「財宝埋蔵」
【1】「 金 鶏 塚 *41」95頁上段8~11行め
   95頁上段12行め (黒部市三日市) ~14行め。
   95頁上段15行め (氷見市碁石能登国境) ~下段2行め。
   95頁下段3行め (砺波市鷹栖、寺島と不動島の境) ~7行め。
   95頁下段8行め (東砺波郡井波町南山見、八乙女山) ~12行め。
   95頁下段13行め (西砺波郡福岡町標木谷*42) ~96頁上段3行め。
   96頁上段4行め (西砺波郡福光町石黒、桑山北麓) ~6行め。
   96頁上段7行め (東砺波郡利賀村岩淵、道江。同村上畠、堅田) ~15行め。
【2】「 金塚の宮 
   96頁下段1行め(東砺波郡福野町南野尻) ~97頁上段4行め。
【3】「 持丸長者の塚 *43
   97頁上段5行め(東砺波郡福野町安居) ~10行め。
【4】「 軍資金隠匿 *44
   97頁上段11行め(下新川郡宇奈月町黒部渓谷) ~98頁下段10行め。
    《30》98頁下段「財宝が眠るという鍬崎山」。
【5】「 金山町埋没 *45
   98頁下段11行め(東砺波郡上平村越中桂) ~100頁上段9行め。
    《31》99頁上段左(8行分)「廃村・桂村に残る堂社址」。
【6】「 幻の町家千軒 
   100頁上段10行め(下新川郡入善町上原*46) ~101頁上段12行め。
    《32》100頁下段「龍宮の上にあるという園家山」。
・10節め、101頁上段13行め~108頁下段3行め「椀貸し伝説*47
   101頁上段14行め~下段4行め
【1】「 龍宮城の膳椀 *48
   101頁下段5行め(下新川郡入善町上原) ~102頁上段14行め。
【2】「 椀貸しの塚・洞穴 
   102頁上段15行め(射水郡大門町水戸田、市/井*49) ~下段5行め。
    《33》102頁下段右(8行分)「椀貸し塚・大塚古墳」。
   102頁下段6行め (婦負郡八尾町杉原、城生) ~103頁上段1行め。
   103頁上段2行め (中新川郡立山町浦田、前田) ~5行め。
   103頁上段6行め (上新川郡大山町大庄、田畑) ~11行め。
   103頁上段12行め (魚津市松倉、大熊) ~14行め。
   103頁上段15行め (氷見市久目、坪池) ~下段5行め。
   103頁下段6行め (氷見市宇波) ~8行め。
   103頁下段9行め (東砺波郡利賀村大勘場) ~16行め。
【3】「 椀貸しの川・淵・池 
   104頁上段1行め(東砺波郡利賀村祖山) ~下段4行め。
   104頁下段5行め (西砺波郡福光町太美山、綱掛) ~105頁上段2行め。
    《34》104頁下段左(8行分)「奇勝・釜が淵(嫁が淵)」。
   105頁上段3行め (婦負郡八尾町仁歩、平沢*50) ~7行め。
   105頁上段8行め (中新川郡立山町東谷、城前) ~下段7行め。
   105頁下段8行め (東砺波郡上平村小原) ~13行め。
   105頁下段14行め (東砺波郡城端町蓑谷) ~106頁上段2行め。
   106頁上段3行め (砺波市栴檀野、市谷*51) ~6行め。
【4】「 椀貸しの松 
   106頁上段7行め(黒部市前沢、布施山本野) ~107頁上段6行め。
   107頁上段7行め (中新川郡立山町東谷、白岩) ~13行め。
【5】「 肩掛地蔵 
   107頁上段14行め(中新川郡立山町上段、日中*52) ~下段4行め。
【6】「 元取山 
   107頁下段5行め(西砺波郡福岡町五位山、鳥倉) ~108頁下段3行め。
・11節め、108頁下段4行め~112頁「地名伝説」
【1】「 神 通 川 *53
   108頁下段5行め(上新川郡婦負郡富山市) ~109頁上段4行め。
【2】「 婦 負 郡 *54
   109頁上段5~14行め。
【3】「 氷  見 *55
   109頁上段15行め(氷見市) ~下段15行め。
【4】「 石  動 *56
   110頁上段1行め(小矢部市石動) ~下段5行め。
    《35》110頁下段右(8行分)「虚空蔵菩薩(聖安寺蔵秘仏)」。
【5】「 蟹  谷 *57
   110頁下段6行め(小矢部市北蟹谷、八講田) ~112頁上段7行め。
    《36》111頁上段「八伏の蟹池」。
【6】「 鼠  谷 *58
   112頁上段8行め(婦負郡八尾町仁歩*59) ~下段10行め。
 以下余白。(以下続稿)

*1:ルビ「くわざきやま」目次ルビ「くわざき」。

*2:ルビ「か わ い だ」。

*3:ルビ「あねくらひ め 」。

*4:ルビ「さるまるだ ゆう」。

*5:ルビ「す のう」。

*6:ルビ「さいぎようあん」目次ルビ「さいぎよう」。

*7:ルビ「けんこうほうし 」目次ルビなし。

*8:ルビ「やすい 」。

*9:ルビ「そうぎ 」。

*10:ルビ「しゆんかん」。

*11:ルビ「び く に ・ひめ」目次ルビ「び く に 」。

*12:ルビ「ご か やま」。

*13:ルビ「たいら」1つめに。

*14:ルビ「ど やま」。

*15:ルビ「おちうど」。

*16:ルビ「こごうのつぼね」。

*17:ルビ「こ なで」。

*18:目次のみルビ「よしなか」。

*19:ルビ「しようず」。

*20:ルビ「か ご 」。

*21:ルビ「はにゆう」。

*22:ルビ「ふとみ ・とうり 」。

*23:ルビ「らくいん」。

*24:ルビ「いのくち」。

*25:ルビ「あめはらし」。

*26:ルビ「に よ いのわたし」。

*27:ルビ「ろくど じ 」。

*28:目次のみルビ「な ご 」。

*29:ルビ「さかたのきんとき・こうえい」目次ルビ「こうえい」のみ。

*30:ルビ「しもだん」。

*31:ルビ「さいみようじ」目次ルビ「あんぎや」も。

*32:目次のみルビ「なりまさ」。

*33:ルビ「そ だに」。

*34:ルビ「よろいがけ  ふじ」目次ルビ「よろい がけ」。

*35:ルビ「こ ぶたまた」。

*36:ルビ「あしくら」。

*37:ルビ「や お 」。

*38:ルビ「みさだ 」。

*39:ルビ「ひ ち りん」。

*40:ルビ「おりたて」。

*41:目次には「金  雞  塚」ルビ「きん けい」。

*42:ルビ「しめき 」。

*43:ルビ「もちまる」目次ルビなし。

*44:ルビ「いんとく」。

*45:ルビ「まいぼつ」目次ルビなし。

*46:ルビ「にゆうぜん」。

*47:目次のみルビ「わんか 」。

*48:目次のみルビ「ぜんわん」。

*49:ルビ「み と だ ・いち/のい」。

*50:ルビ「にんぶ 」。

*51:ルビ「せんだん」。

*52:ルビ「につちゆう」。

*53:ルビ「じん づう」目次ルビなし。

*54:目次のみルビ「ね い 」。

*55:目次のみルビ「ひ み 」。

*56:目次のみルビ「いす るぎ」。

*57:ルビ「かん だ 」。

*58:ルビ「よめ だに」。

*59:ルビ「にんぶ 」。

石崎直義 編著『越中の伝説』(2)

 昨日の続きで1章め、13~60頁「自然伝説」の2節め、26頁上段11行め~28頁「海・島・岩」から見て置く。要領は昨日に同じで節ごとに仮に【 】に番号を附し、挿入される写真は通しで仮に《 》に番号を附した。
【1】「 唐  島 
   26頁上段12行め(氷見市氷見*1) ~27頁上段6行め。
【2】「 釣 鐘 岩 *2
   27頁上段7行め(高岡市伏木町国分*3) ~27頁下段3行め。
【3】「 錨 の 溝 *4
   27頁下段4行め(魚津市経田坂下*5) ~28頁下段14行め。
・3節め、29~38頁上段8行め「谷・川・淵」
【1】「 祖父谷・祖母谷 *6
   29頁上段2行め(下新川郡宇奈月町黒部*7) ~30頁上段9行め。
    《7》29頁下段「黒部渓谷・白龍峡」。
【2】「 紅葉谷・紅葉川 *8
   30頁上段10行め(高岡市太田) ~下段16行め。
【3】「 子 撫 川 *9
   31頁上段1行め(小矢部市西中野) ~下段5行め。
【4】「 愛本橋の淵 
   31頁下段6行め(下新川郡宇奈月町愛本*10) ~32頁下段15行め。
    《8》31頁下段左(8行分)「愛本橋の淵」。
【5】「 おせん落とし谷 
   33頁上段1行め(下新川郡朝日町山崎) ~下段9行め。
【6】「 龍宮が淵 
   33頁下段10行め(小矢部市宮島) ~36頁上段1行め。
    《9》34頁上段「宮島峡の龍宮が淵」。
【7】「 蛇谷の主の成仏 
   36頁上段2行め(西砺波郡福光町吉見*11) ~37頁上段3行め。
【8】「 小矢部川の源流 
   37頁上段4行め(西砺波郡福光町下小屋*12) ~38頁上段8行め。
    《10》37頁上段左(8行分)「小矢部川のみなかみ不動滝」。
・4節め、38頁上段9行め~46頁下段9行め「池・沼・湖・泉」
【1】「 釜  池 
   38頁上段10行め(中新川郡上市町大岩) ~40頁上段1行め。
【2】「 立山のみくりが池 
   40頁上段2行め(中新川郡立山町立山) ~下段14行め。
    《11》40頁上段左(8行分)「立山・みくりが池」。
【3】「 走り影の池 
   40頁下段15行め(婦負郡婦中町古里*13) ~42頁上段2行め。
【4】「 高岡城の外濠 *14
   42頁上段3行め(高岡市古城公園) ~43頁上段12行め。
    《12》42頁下段「高岡城の枡形池濠」。
【5】「 縄 が 池 
   43頁上段13行め(東砺波郡城端町蓑谷*15) ~44頁上段2行め。
    《13》43頁下段左(8行分)「俵藤太伝説の縄が池」。
【6】「 大池の水神 
   44頁上段3行め(西砺波郡福光町医王山) ~46頁上段10行め。
    《14》44頁下段「「医王山の大池」の中の島岩」。
【7】「 ヨウマン池 
   46頁上段11行め(下新川郡朝日町大家庄*16) ~46頁下段9行め。
・5節め、46頁下段10行め~48頁上段8行め「温  泉」
【1】「 山田温泉 
   46頁下段11行め(婦負郡山田村湯村) ~47頁下段5行め。
【2】「 大牧温泉 
   47頁下段6行め(東砺波郡利賀村大牧*17) ~48頁上段8行め。
・6節め、48頁上段9行め~52頁下段8行め「動  物」
【1】「 二上山の三猿 
   48頁上段10行め(高岡市守山) ~下段16行め。
【2】「 娘に化けてきたムジナ 
   49頁上段1行め(東砺波郡利賀村利賀/上) ~下段6行め。
【3】「 角折れ坂 *18
   49頁下段7行め(小矢部市宮島地区久利須) ~50頁下段6行め。
【4】「 黒薙温泉の化けグモ *19
   50頁下段7行め(下新川郡宇奈月町黒薙) ~52頁上段1行め。
    《15》51頁上段「黒薙温泉(黒部渓谷)」。
【5】「 女神に怒られたサケ 
   52頁上段2行め(上新川郡大山町大山) ~下段8行め。
・7節め、52頁下段9行め~56頁下段3行め「植  物」
【1】「 黒 百 合 *20
   52頁下段10行め(中新川郡立山町立山) ~53頁下段16行め。
    《16》53頁上段「立山の黒百合」。
【2】「 九 本 杉 
   54頁上段1行め(砺波市東野尻) ~下段7行め。
    《17》54頁上段左(8行分)「砺波市の九本杉」。
【3】「 八百比丘尼杉 *21
   54頁下段8行め(中新川郡上市町若杉*22) ~55頁上段9行め。
【4】「 田子の藤 
   55頁上段10行め(氷見市下田子、藤山*23) ~下段7行め。
【5】「 金のワサビ 
   55頁下段8行め(西砺波郡福光町祖谷*24) ~56頁下段3行め。
・8節め、56頁下段4行め~60頁「岩  石」
【1】「 天 柱 石 
   56頁下段5行め(東砺波郡平村松*25) ~57頁下段3行め。
    《18》57頁上段「五箇山中の天柱石」。
【2】「 幻の龍石 
   57頁下段4行め(東砺波郡利賀村大牧) ~58頁下段15行め。
【3】「 夫 婦 石 *26
   59頁上段1行め(魚津市西布施) ~6行め。
   59頁上段7行め (西砺波郡福光町太美山) ~下段6行め。
【4】「 塩売り石・牛石 
   59頁下段7行め(高岡市国吉) ~60頁上段1行め。
【5】「 夜泣き石 
   60頁上段2行め(射水郡小杉町黒崎) ~下段5行め。
 以下余白。「自然伝説」は以上合計45話。(以下続稿)

*1:ルビ「ひ み 」1つめに。

*2:ルビ「つり がね」。目次ルビなし。

*3:ルビ「ふしき ・こくぶ 」。

*4:ルビ「いかり・どぶ」。

*5:ルビ「きようでん」。

*6:ルビ「じ じ だに・ば ば だに」。

*7:ルビ「う な づき」。

*8:ルビ「もみじ 」。「目次」ルビなし。

*9:ルビ「こ  なで」。

*10:ルビ「あいもと」。

*11:ルビ「ふくみつ」。

*12:ルビ「しもご や 」。

*13:ルビ「ね い ・ふちゆう」。

*14:ルビ「そとぼり」。

*15:ルビ「じようはな みのたに」。

*16:ルビ「おおいえのしよう」。

*17:ルビ「と が 」。

*18:ルビ「つの」。

*19:ルビ「くろなぎ」。

*20:ルビ「くろ ゆ  り 」。

*21:ルビ「や お び く に 」。

*22:ルビ「かみいち」。

*23:ルビ「ひ み ・しもた ご 」。

*24:ルビ「ふくみつまちそ だに」。

*25:ルビ「たいら」。

*26:ルビ「み よ う と」。

石崎直義 編著『越中の伝説』(1)

石崎直義 編著『越中の伝説』昭和51年9月15日 印刷・昭和51年9月25日 発行・定価900円・第一法規・174頁・B6判並製本 

越中の伝説 (1976年)

越中の伝説 (1976年)

  • メディア:
 第一法規出版のこのシリーズは1970年代に29点刊行されている。『東海の伝説』や『四国路の伝説』のように地方全体を覆うものから、『信州の伝説』『越後佐渡の伝説』『因幡伯耆の伝説』『沖縄の伝説』のように現在の県に相当する範囲を覆うもの、『播磨の伝説』『安芸の伝説』『出雲隠岐の伝説』のように県の一部に限定されているものもある。
 私の見た本にはカバーがないが、Amazon 詳細ページに掲出されている書影を見るに、カラーブックス(保育社)のような横縞の入った透明ビニールのカバーが掛かっていたことが分かる。
 表紙と裏表紙の見返し(遊紙)はクリーム色、表紙・裏表紙の裏には同じ「富 山 県」の白地図を掲出する。
 やや厚い白い紙の扉、小口から 3.5cm のところで縦線で仕切って、上部に縦長のゴシック体の標題、下部に横長の明朝体で「石崎直義 編著」。
 1頁、3字下げで「は し が き」とあり1行分空けて本文、1頁16行、1行46字。まづ歴史や地理について述べ概観し、2頁9~13行め、

 本書には、富山県に伝承されてきた、数多くの伝説の中から、県民性・風土性・歴史性の理解を深め/るものを精選した。しかし、単なる羅列的伝説集ではなく、読む人の心にふれ合って、ゆたかなイメー/ジをかもしだす興深いものを採り上げた。とくに読み物として喜ばれるように再話した。また、歴史・/民俗の研究資料として、比較研究にも役立つよう配慮して編著した。さらに、ハイキング・ドライ/ブ・家族行楽の際に持参して、現地でふるさとの伝説の心を味わっていただきたいと希っている。

と編纂に際しての配慮を述べ、そして最後に謝辞、3頁3行め、3字下げで「昭和五十一年文月上浣」、4行めやや大きく「石 崎 直 義  」。
 頁付は版面の小口側の下に斜体で入っている。ただ「9」のみ斜体になっていない。また、奇数頁の上部小口側に「は し が き」、以下「目   次」そして「自然伝説」云々と明朝体横組みの柱。
 4頁は白紙、5~11頁「目   次」は2段組で1段16行。11頁下段の最後、5~7行めに下揃えで「    表紙写真(五箇山合掌造家屋<本文六九/ページ参照>)/前仏 勇氏撮影」とある。
 12頁は白紙、13頁は上段は中央に明朝体縦組みで大きく「自 然 伝 説」とあって、下段、まづ2行取り1字下げでやや大きく「山 ・ 峠」と節を示し、ついで2~3行めに跨がって【1】「 立山開山 」と話の題、仮に【 】に節ごとに番号を附した。2行め3行めはその分、6字下げで本文、冒頭に「(中新川郡立山町立山*1) 」と地名を表示。以下各話も、題が2字3字でも6字分2行取り、字数が多い場合は上下1字分ずつ空けている。本文は1段16行、1行22字。モノクロの写真が多く挿入されており、この話では《1》14頁上段下左に小さくキャプション「富山市内から立山連峰を望む」、《2》16頁下段右(8行分)下左に小さく「雄山神社参道」の2つ、以下も同様に仮に《 》に番号を附して置く。本文は17頁上段7行めまで。
【2】「 美 女 平 」
   17頁上段8行め(中新川郡立山町立山) ~18頁上段8行め。
【3】「 亡 者 宿 *2
   18頁上段9行め(中新川郡立山町芦峅寺) ~19頁下段7行め。
【4】「 地 獄 谷 」
   19頁下段8行め(中新川郡立山町立山) ~21頁上段8行め。
    《3》20頁上段「立山・地獄谷」。
【5】「 反魂丹由来異聞 *3
   21頁下段9行め(富山市) ~22頁上段6行め。
【6】「 薬 師 岳 」
   22頁上段7行め(上新川郡大山町大山) ~23頁上段5行め。
    《4》22頁下段「薬師岳遠望」。
【7】「 称 名 滝 *4
   23頁上段6行め(中新川郡立山町立山) ~下段2行め。
    《5》23頁下段右(8行分)「立山称名滝」。
【8】「 人 形 山 *5
   23頁下段3行め(東砺波郡平村田向*6) ~24頁上段16行め。
【9】「 遊女雛菊の碑 *7
   24頁下段1行め(中新川郡立山町立山) ~25頁上段6行め。
【10】「 猿が馬場 」
   25頁上段7行め(小矢部市砺波山*8) ~26頁上段10行め。
    《6》25頁下段「くりから山中の猿が馬場」。
 「自然伝説」の1節めは以上10話。なお、「目次」では各話の題は、2~4字題までは5字分で均等割付にしている。ルビの有無は註に記した。(以下続稿)

*1:ルビ「なかにいかわ」。

*2:ルビ「もう じや やど」。「目次」にはルビなし。

*3:ルビ「はんごんたん」。

*4:ルビ「しようみようだき」。

*5:ルビ「にん ぎよう」。

*6:ルビ「たいら たむかい」。

*7:ルビ「ひなぎく」。

*8:ルビ「お や べ・と な み」。

畑中幸子『南太平洋の環礁にて』(11)

・プカルア滞在期間について(3)
 さて、畑中氏がプカルアで1964年を迎えたことは「Ⅵ 太陽はプカルアをめぐる」の30節め、164頁16行め~166頁15行め「去っていく一九六三年」から章末の34節め、170頁2行め~172頁1行め「正月の酔っぱらい」に描写されています。
 プカルアを離れる場面は「Ⅶ 住めば都のプカルア」の5節め、204頁9行め~205頁4行め「今啼いたからすがもう笑う」の前後に描写されていますが、204頁17行め~205頁2行め、

‥‥。わたしは、一人で怒ってみたり、喜んでみたり、悲しんだり泣きもしたプカルア/【204】での生活に別れを告げた。三度訪れるにはプカルアは余りにも遠かった。海はつながっていて/も日本から一万キロ以上ある距離が夢をもたせてくれない。

とあって、プカルア滞在は1962年の「二カ月足らずの予備調査」と、1963年8月13日にタヒチ島を発って、8月末か9月初めに到着してから1964年に掛けての、本書に扱われている長期滞在の2度であったことが分かります。
 が、では1964年のいつまでプカルアにいたかが、どうもよく分からないのです。手懸りとしては219~222頁「あとがき」、220頁4行めの「わたしがプカルアを離れて三年余りたってしまった。」との記述があります。この「あとがき」は222頁13行めに「一九六七年七月」とあります。そうするとプカルアを離れたのは1964年の前半、1963~1964年の長期滞在も1年足らず、1962年の予備調査も含めて畑中氏のプカルア滞在は合計して、せいぜい1年間程度であったように思われます。2020年11月30日付(01)に引いた、カバー表紙折返しの紹介文に「単身この島に棲み込むこと一年半。」とあるのは少々長く取り過ぎているようです。ただ、畑中氏がはっきり書いていませんので、滞在期間の判断が難しいのは確かなのです。
 昨日見た青柳まちこ「100号記念 特別寄稿/私のオセアニア学ことはじめ」のような回想がないかと思って、昨年の11月11日に次の本を借りて見たのです。

 しかし、この本は標題にある通りニューギニアについて述べたもので、南太平洋のことは取り上げられていませんでした(細かく見ればどこかに記述があったかも知れませんが)。
 それはともかく、青柳氏の「私のオセアニア学ことはじめ その2」の、前回冒頭を抜いた「2.タヒチ」の最後、2頁30行め~3頁6行めに、

 こうして1962年2月1日、午後6時20分私の乗ったエア・フランス機は滑走を始めた。/目指す先はタヒチのパピエテ、飛行機は一路南下する。赤道を越えたのは何時か分からな/かったが、時間からすれば9時半頃には南半球に入ったことになるのだろう。大昔ハワイ/人が中央ポリネシアから北に向かった大航海とは逆方向である。
ほとんど揺れることもなく、高度を下げてきた機体が滑走路にぶつかる音がして飛行機/は定刻通り11時50分、パピエテに到着した。空港はホノルルと比べると如何にも暗く、/【2】湿気を含んだ生暖かい、ほんのりと甘い空気があたりに立ち込めていた。
入国の手続きが終わって建物の外に出ると、暗い中、畑中さんが立っているのが見えた。/短く髪を切っているため少女のようである。傍に立っている白髪の日本人は、畑中さんが/お世話になっている清野さんであると紹介された。二人はそれぞれティアレ・タヒチの白/い花のレイを私の首に掛けて下さった。私は今晩から清野一家の居候の畑中さんのそのま/た居候という身分となる。

とあって、青柳氏はハワイから移動、昭和37年(1962)2月1日深夜にタヒチ島に着き、畑中氏と清野老人の出迎えを受けております。すなわち青柳氏がタヒチに来たのは、北氏がタヒチを去って1ヶ月余り経った頃と云うことになります。
 清野家のことは、続く3頁7行め~4頁9行め「3.清野さん」に詳しく述べてありますが、これは別に、北杜夫『南太平洋ひるね旅』と比較しながら取り上げることとしましょう。4頁10行め~5頁8行め「4.モーレア島への旅」も同様今回は割愛、ここでは5頁9行め~6頁16行め「5.ナイ家に宿泊」の最後から、6頁17行め~7頁26行め「6.ニューカレドニア」の冒頭、6頁13~23行めを抜いて置きましょう。

 タヒチでの2週間の滞在を終えて出発する時、清野さんと畑中さんは空港に送りに来て/下さった。タヒチ流に抱き合い、清野さんの幾分伸びた髭に頬擦りすると、私は涙が止ま/らなくなって隠すのに骨を折った。畑中さんはその後、念願のツアモツ諸島に渡り、プカ/ルア島で調査を行ったことは、『南太平洋の環礁にて』(岩波新書653)に詳しい。
 
6.ニューカレドニア
 タヒチからニュージーランドへ行く前にニューカレドニアに立ち寄ることは、ホノルル/で、サウス・パシフィック・コミッションのジャック・バロー博士にお会いした時に決め/ていた。真夜中にパピエテ空港を出発したエア・フランスはフィジー経由で一路西に向か/う。2月18日の夜が明けて、下に大きな島が見えてきた。やっぱりメラネシアの島は大/きいななどと、妙な感心をしているうちに飛行機は高度を下げ、トンツータの飛行場に滑/らかに着陸した。


 そうすると、青柳氏が畑中氏と清野老人に見送られたタヒチを発ったのは2月17日と云うことになります。――4月20日付(06)に、畑中氏がプカルアに「二カ月足らず」滞在した「予備調査」の時期「一九六二年の初め」を、昭和37年(1962)の3月頃と推定したのは、当然、青柳氏を見送った後であるはずだからです。
 なお、国立国会図書館サーチ等で検索するに、畑中氏のフランス領ポリネシア滞在中、第五次「思想の科学」第8号(1962年11月)に「ポリネシアだより」を寄稿、岩波書店の「世界」には第212号(1963年8月)と第213号(1963年9月)に「西サモアの人と生活」上・下を寄稿しています。それから毎日新聞社 編『人間形成ある根性 続』(1964年・光風社)に「南の島に人類学研究 東京大学大学院学生 畑中幸子」と題して取材されています。出来れば遠からず、これらも見て置きたいと思っています。(以下続稿)

畑中幸子『南太平洋の環礁にて』(10)

北杜夫『南太平洋ひるね旅』との関連(4)
 北氏がタヒチ島で、日本人移民の紺野老人の引合せで畑中氏に初めて会ったときには、2020年10月31日付「赤いマント(293)」に見たように、大阪市立大学助教授のT氏が同行していました。その翌日、北氏は帰国の途に就く「T氏」にばったり会うのですが、以後は「見送りのH嬢」すなわち畑中氏と行動を共にすることが多くなり、T氏のことはすっかり霞んでしまうのです。
 このT氏が誰だか分からなくて、もちろん半年前にも検索してみたのですが、これだけの手懸りでは上手く尋ね当りませんでした。
 そこで本書に何か記述がないかと思ったのですが、北氏と会ったことを書いていないのと同様、T氏のことにも触れていないのです。
 その探索のヒントを与えてくれたのは、2020年10月26日付「赤いマント(288)」に触れた、新潮文庫2118『南太平洋ひるね旅』のAmazon詳細ページに「窓に!窓に!」というハンドルネームで2014年6月19日に投稿された「★★★★★ 今は消え去った風景」と云う長文のレビューの「おまけとして、副読本みたいなものを幾つかあげておきます。」との一節です。3点挙がるうち3点め、マーク・トウェイン『ハワイ通信』を除く2点が畑中氏関連なのです。「I氏」こと岩佐嘉親の『南太平洋の楽園』は挙がっておりません。

「南太平洋の環礁にて」畑中幸子著
文中で「女性人類学者のH嬢」と紹介されているのがこの人。北氏に語ったとおり、タヒチからさらに僻地のプカルア島へ赴いた体験が綴られています。旅行記と調査レポートの中間のような、不思議な味わいのある本です。ただし絶版。
 
「私のオセアニア学ことはじめ」青柳まちこ著
日本オセアニア学会のニュースレターに掲載された文章ですが、ネット上でも読むことができます。同氏がタヒチを訪れた際に畑中幸子さんにお世話になったこと、タヒチ在住の清野氏のこと、伴野商会のことなどにも触れられています。


 「私のオセアニア学ことはじめ」は立教大学名誉教授の青柳まちこ(1930生)が「日本オセアニア学会NEWSLETTER」に「100号記念 特別寄稿」と銘打って4回に亘って寄稿した回想です。
・「その1」「日本オセアニア学会NEWSLETTER」No.100(2011年07月20日)1~8頁
・「その2」「日本オセアニア学会NEWSLETTER」No.101(2011年12月20日)1~10頁
・「その3」「日本オセアニア学会NEWSLETTER」No.102(2012年3月5日)1~10頁
・「その4」「日本オセアニア学会NEWSLETTER」No.103(2012年7月20日)1~10頁
 これらは「窓に!窓に!」氏(?)も述べている通り、「日本オセアニア学会」webサイト「日本オセアニア学会学術通信掲載論文」にて閲覧することが出来ます。
・青柳まちこ「100号記念 特別寄稿/私のオセアニア学ことはじめ その2」
 1頁4行め~2頁18行め「1.日本人による現地調査開始」に、1頁21~31行め、

 ポリネシアで行われた最初の調査は、京都大学探検部による1960年のトンガ諸島の調/査であろう。指導教官は大阪市立大学の薮内芳彦教授で、京大人文研の藤岡喜愛氏が副隊/長、大学院生・学生併せて8名がメンバーであった。後の国立民族学博物館石毛直道氏/も考古学担当の学生としてこれに参加していた。
 学生の組織である探検部がどのようにして資金集めをしたのか、よく分からないが、往/路は大阪港から伴野通商の貨物船に便乗し1ヶ月、帰路はフィジーのスヴァからマグロ船/に乗って1ヵ月半の航路で帰国したそうである。こうして交通費を浮かしたのであろう。/おそらく次に来るのが大阪市立大学医学部のポリネシア学術調査団ではないだろうか。/『民族学研究』(28-2:134)によれば、1961年8月から10月にかけて、自然人類学者/の島五郎、鈴木誠、寺門之隆諸氏がサモアニュージーランドで、マオリとモリオリの頭/骨の研究をされたとある。

とある、昭和36年(1961)8~10月の「大阪市立大学医学部のポリネシア学術調査団」が、4月19日付(05)に引用した本書「あとがき」の謝辞にある「この調査のきっかけを与えて下さった大阪市立大学医学部、」に間違いないでしょう。2020年11月2日付「赤いマント(295)」の初めの『南太平洋ひるね旅』からの引用に「はじめ六人のグループでサモアからまわってきたのだが、T氏は明日日本へ帰り、H嬢だけが一人残る」ことになった、とあるのに対応する記述が「私のオセアニア学ことはじめ その2」2頁19行め~3頁6行め「2.タヒチ」にあります。すなわちその冒頭、2頁20~23行めに、

 ところで、ハワイ大学での1学期を終えると、私は次の目的地ニュージーランドに向か/おうと考えていた。しかし先に述べた、大阪市立大学ポリネシア学術調査団の一員であっ/た東大大学院の畑中幸子氏が、ツアモツ調査のため、調査団の帰国後もタヒチに留まって/その準備をしていることを聞いていたので、先ず畑中さんを訪ねることにした。

とあります。すなわち『南太平洋ひるね旅』の「T氏」は寺門之隆(1924.9.16~1992.6.23)と云うことになります。
 上に「半年前」と書きましたが、半年放置してここに来て急に進展したのではなくて、青柳氏の文章には12月8日に目を通していて、すぐにでも記事にするべきだったのですけれども、こういうことにも踏ん切りやら時機やら気分やら何やらが影響するので、何となくそのままになっておりました。まぁ当ブログは万事がこの調子ですけれども。
 寺門氏については、楢崎修一郎(1958~2019.3.21)のブログ「人類学のススメ」の2012年08月15日「日本の人類学者27.寺門之隆[1924-1992]」にその略歴や業績が纏められています。寺門氏は北氏に会った当時満37歳、大阪市立大学医学部の解剖学教室の助教授(1958~1972)でした。(以下続稿)

畑中幸子『南太平洋の環礁にて』(09)

 前回引用した「金沢大学文学部論集―行動科学科篇―」第3号(昭和58年3月25日・金沢大学文学部)17~44頁、畑中幸子「東ツアモツ群島における文化の実態」について、もう少し見て置きましょう。――畑中氏は『南太平洋の環礁にて』以外に、南太平洋に関する著書を出していないようですが、調査は続けていて、「東ツアモツ群島における文化の実態」の冒頭、18頁1~3行め、

 筆者がプカルア島でおこなった社会人類学の調査(1961―64年)とレアオ島で1976年、/1980年に学際調査でおこなった “東ツアモツ群島へのポリネシア人の移住に関する研究” /(科学研究費海外学術調査)の成果をもとに、‥‥

とあり、また19頁32~34行め、

‥‥。1977/年(スミソニアン研究所緊急人類学調査委員会の援助による)、1979年(トヨタ財団の助/成金による)に筆者は単身レアオ島に戻り、‥‥

とあって、今度はレアオ島に昭和51年(1976)から昭和55年(1980)に掛けて6名の団員の学際調査が2回、それとは別に単身で2回の、合計4度、調査に出掛けているのです。この報告の中で気になったのは、2020年12月5日付(04)に触れた、レアオ島のハンセン氏病に関する記述で、少々意外な発展をします。
 これについては『南太平洋の環礁にて』にも、71~93頁「Ⅳ 時間が流れない/――荒涼たる世界――」の16節め、87頁11行め~88頁6行め「どこから入ったかおそろしい病気 」、87頁11~17行めには「遺跡」の近くにある「墓」につき、「約三十年前」に「重症であったためレアオの癩病院におくられることになっていた」が「船を待っている間に死んだ」と云う「二十歳の若い女性」について述べ、88頁1~6行め、

 一九二五年レアオで癩が集団発生したとき、レアオと通婚関係のあるプカルアにも癩が入っ/ていた。レアオ育ちのテプコルによると、彼女の子供のころは、鼻のくずれた人間や耳のとれ/た人など沢山みていたから癩病はこわくないという。一九三六年に再びレアオで集団的に発生、/病院が設けられたが、その頃プカルアでもかなりの重軽症の癩患者を出し、ミッションの命令/でレアオにおくられたという。半年に一回、スクーナーが来るか来ないかというくらい孤立し/ていたレアオに癩が発生したのは不思議なことであった。

と解説してありました。
 「東ツアモツ群島における文化の実態」では更に詳しく、25頁22行め~30頁「社会変化の過程」の節に、25頁23行め~26頁3行め、

 東ツアモツ群島はフランスの保護領になった後、間もなく政府が行政をカソリックミッ/ションに委託していた。1880年フランス植民地に併合され、初めて地方行政が施行された。/僅かなコプラ以外に何の資源もない遠隔の一環礁レアオは政府の関心をひくこともなかっ/た。レアオは孤立しながらも、ようやくその名がタヒチ島で知られるようになったのは、/1925年、1934年の二度にわたるハンセン氏病の流行である。最初の流行時には二村のうちの/一村が村ぐるみでタヒチ島のオロハラ癩療養所に送られ、大勢の者が帰島しなかった。この/グループに口碑伝承や系図をひそかに伝えていた古老が何人かいたという。1963年、筆者/が訪ねた時は病状のためコミュニケーションが不可能であった。二度目の流行ではレアオ/に療養所が建てられ、オロハラから一人の看護夫(infirmier)が派遣された。この人がピエ/ール・フィウ氏であった。レアオの療養所にはプカルアをはじめ近隣の島からも患者が送/られ、1934年には90名の患者がいた。レアオ療養所にはフランス政府だけでなく米国のモル/【25】モン協会に属する団体から救援物資が続けて船で送られてきた。この時レアオ住民は初め/て外国の食品―粉ミルク、砂糖、米、魚肉類の缶詰―に接した。これより外来の食糧への/強い慾求が生まれた。

とあります。そうするとレアオの2度めの流行は、1936年ではなく1934年のようです。1963年、と云うのは、4月20日付(06)に見たように、畑中氏が8月13日にコプラ・スクーナー「アラヌイ」でタヒチ島を出航するまで、と云うことになります。フィウ氏のことを「この人が」としているのは18頁13行め~20頁8行め「はじめに」に、20頁5~8行め、

‥‥。数少ない島のタフガ(=賢者)といわれているテアカ・タイレリュウら古老の外に、/1934~56年までレアオ島の癩療養所で働いていたタヒチ人看護夫*1ピエール・フィウ氏の協/力で、ある程度までレアオ島の伝統文化を堀り出すことができた。彼らがレアオ島に関す/る最後のインフォーマントであった。

と先に名前が持ち出されていたからです。
 なお、この辺りの経緯及びフィウ氏については、「国際関係学部紀要」第23号(1999年10月・中部大学国際関係学部)25~38頁、畑中幸子「東ポリネシアから消えた文化遺産一消えたチャントー」の「はじめに」にも、26頁7行め~27頁10行め、

 1962年,筆者は仏領ポリネシアのツアモツ群島プカルア環礁で偶然,古老たちが歌っているチ/ャントを聞いた。研究課題に追われていた筆者はチャントの重要性に対する認識が足りなかった。/【2】プカルア島の調査で島民の祖先が30マイル離れているレアオから移住してきたことがわかった。
 1976年から “東ツアモツ群島へのポリネシア人の移住に関する研究” 課題の下でレアオで学際/調査を始めることになった。 1976~80年の間,レアオで120余りのチャントを収集した。核実験の/ため,時にはレアオへの渡航が不可能になり,単身タヒチでレアオで録音したチャントの転写に/かかったこともあった。幸いなことに1934~56年までレアオのハンセン氏病療養所で働いていた/タヒチ人看護夫ピエール・フィウ氏を助手に作業を始めることができた。フィウはマンガレバ島/の調査の帰途,レアオに来たピーター・バックと三か月間生活を共にしていた。 1935年のことで/ある。ポリネシア研究に既に偉大なる業績を残していたマオリ族の血をうけたバックからフィウ/は,ポリネシア文化に関して薫陶をうけた。フィウはレアオの過去に興味を抱くようになり,当/時の古老の話を記憶に止めていた。レアオに関する最後のインフォーマントともいえる。

との説明があります。これら2つの論文で取り上げられている「レアオのチャント」についても、ちゃんと説明して置きたいところですが、長くなりますのでここにはその存在をメモするに止めましょう。(以下続稿)

*1:ルビ「アンフィルミェ」

畑中幸子『南太平洋の環礁にて』(08)

北杜夫『南太平洋ひるね旅』との関連(3)
 4月19日付(05)の続き。――ブラジルの日本語日刊新聞「ニッケイ新聞」のサイト「ニッケイ新聞WEB」の2007年6月27日付「作家・北杜夫さんと独占インタビュー=ブラジル日本移民を書いた長編小説『輝ける碧き空の下で』=2回訪伯=日系人と心温まる交流=訪伯時のエピソードきく」で、北氏が「タヒチの近郊の島での鉱山で働いた移民の子孫が二人、中心都市のパペーテにいまして」と述べていることについて、『南太平洋ひるね旅』に登場する紺野氏や清野氏のことだろうけれども、両氏は「移民の子孫」ではなく「移民」一世なので、どうもこの辺りの北氏の発言は怪しいのではないか、と思ったのでした。『南太平洋ひるね旅』には2020年11月1日付「赤いマント(294)」に引用したように、清野氏が「フランス領タヒチの移民募集の広告」に「応募し」たことは見えているのですが、それがどんな仕事であったかの説明がないのです。
 しかし、本書を読んでいるうちに、昨日引用したプカルアの学校の青年教師イヴェール・ビアンの「母方の祖父が、明治末期マカテアの燐鉱島に契約労働者できた日本人であった」との記述の他にも、次の記述を拾うことが出来ました。
 125~172頁「Ⅵ 太陽はプカルアをめぐる/――人間は年を取らない――」の18節め、148頁5行め~149頁16行め「年などアイタ・ペアペア(気にしない)」には、149頁1行め「戸籍の写し」に拠ると「五十八歳」の、148頁5行め「変りもの」の「トーマという老人」について、6~10行め、

‥‥。レアオの人間であるが、娘たちと死んだ妻の土地でくらしていた。/彼は若いころ、マカテアの燐鉱島に人夫を集めるためレアオへ来た燐鉱会/社の船に乗って二年ほど働きに出かけた。当時、日本人契約労働者が大勢入っており、彼らか/ら仕事の監督をうけた。わたしが日本人であるため昔を思い出したのか島のことばがわかるよ/うになったころを見はからって、なつかしそうに話しかけてきた。‥‥

とあります。1963年の終り頃に58歳とすると1905年生。このマカテアの燐鉱島については、173~218頁「Ⅶ 住めば都のプカルア/――はるかなくにオ・タヒチタヒチ島――」にも2節め、198頁8行め~199頁6行め「われわれの故郷はレアオ 」にも、198頁15行め~199頁1行め、

 三十年ほど昔、プカルアの人間がマカテアへ働きにいったとき、そこへ同じ労務者としてク/ック諸島のラロトンガからきていた人びとと接して、タヒチ語とかなり異なっている自分たち/のことばが通じたため、「先祖が同じかもしれない」という疑惑がもたれ、未だに島民から消/えていなかった。‥‥

と言及されています。
 後者については、「金沢大学文学部論集―行動科学科篇―」第3号(昭和58年3月25日・金沢大学文学部)17~44頁、畑中幸子「東ツアモツ群島における文化の実態」にも、26頁30~33行め、

‥/‥。1918年と1923年の二回にわたりマカテアの燐鉱採掘の人夫募集がレアオ、プカルアに/あり40人近くが妻子同伴で契約労働に出かけた。レアオ島民はマカテアであちこちから来/ている他島の人びとと接触した。彼らはクック諸島の人びととのコミュニケーションの方/がタヒチ人とのコミュニケーションより容易であったという。‥‥

とあり、トーマはこのいづれかに参加してマカテア島で働いたようです。そうすると「三十年ほど昔」ではなく40年ほど昔とするべきでしょう。
 マカテア島はトゥアモツ群島の西端近く、トゥアモツ群島の東端に近いプカルア環礁からは1200km以上離れていますが、タヒチ島からは200km、日本人の感覚からすると随分離れているようですがトゥアモツ群島ではタヒチ島に一番近い島です。しかもナウル島・バナバ島と並ぶ太平洋に於ける燐鉱石の産地(1966年閉山)で、環礁や火山島ばかりのフランス領ポリネシアには他に鉱山もなさそうですし、北氏がインタビューで語っていた「タヒチの近郊の島」の「鉱山」は、ここで間違いないでしょう。
 2020年11月1日付「赤いマント(294)」の時点でここまで調べておれば、誤ることもなかったのですが、追々追加する按配でやっておりますので仕方がありません。――この、タヒチ島の日本人移民は元来がマカテア島の燐鉱山の労働者だった、と云う事実は本書に続いて読んだ、北杜夫『南太平洋ひるね旅』に「I氏」として登場する岩佐嘉親の『南太平洋の楽園』(原題『南海の楽園』)に明瞭に説明されておりました。
 と云う訳で、次に岩佐嘉親『南海の楽園』の日本人移民に関する記述に移りたいのですが、その前に、畑中氏と同行していた大阪市立大学助教授のT氏、畑中氏のプカルア滞在期間、さらに清野さんについて畑中氏の知友の記述について、一通り確認を済ませて置きましょう。(以下続稿)

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 3ヶ月前、1月22日付「ビートたけし『たけしくん、ハイ!』(25)」の付足りにて、IOC解体を訴えたが、その後聖火リレーが始まり、聖火リレー中止を訴えた島根県知事にはあからさまに圧力が掛かり、そしていよいよIOCがその醜怪な本性を露わにして来た。かつて世間には、幾ら日本が――利権に繋がっているJOCとか自民党とかその関係者が東京オリンピックをやりたがっても、IOCが適切な判断をしてくれる、などと云う楽観論もあったかと思うが、彼らが最も crazy であることが明らかになった。もう金輪際オリンピックなど止めたら良い。一体彼らはどこの世界で息をしているのだ。スポーツなど所詮道楽である。楽しくやってもらう分には私だって応援したいのだけれども。そもそも東京オリンピック招致にまつわる疑惑の数々を見ても、もともと連中がまともでないことは明らかだったのだ。
 自民党がただの利権誘導団体に過ぎないことが看破出来ない国民が多過ぎてうんざりしている。ブレーキ係を自称していたはずの公明党は「野党も賛成している」という口実のために野党のフリをしている日本維新の会ともグルになって、危険な煽り運転に加担している。そして2020年3月26日付「飯盒池(6)」の付足りに述べた通り、いよいよ「オリンピックに殺される」状況が現実味を帯びて来た。本当に、昨年の3月に開催返上、中止にしておくべきだった。ここで判断を誤った責任を取って、当時そして現在の関係者は一切の公職から退くべきだろう。敗戦後もゾンビのように影響力を保ち続け、一兵卒の数倍の恩給・遺族年金を受け取り続けたのと同じような不正義を、今度こそ許してはならない。しかしながら忘れっぽく議論が苦手でお互いに甘い日本人は、これからでも中止したことを評価して、また当選させそうで恐ろしい。中止なんて当然のことだ。だから特に強調して置こう。――ここまで中止しなかった責任が問われるべきなのだ、と。かつ、ジャーナリストを自称しながらまともな意見を発することも出来ずに、このような状況になっても、2020年6月1日付「図書館派の生活(7)」や2020年6月5日付「内館牧子『必要のない人』(2)」に批判した通りのオリンピック推進報道を続けるばかりのマスコミ各社も、相応の対応がない限り、地に堕ちた信頼は二度と回復しないであろう。知らんけど。

畑中幸子『南太平洋の環礁にて』(7)

・プカルア滞在期間について(2)
 昨日の続き。一昨日、4月19日付(5)の最後に「明後日」見て置こうと予告した件についても、少し触れております。
 昨日見た「Ⅱ」章の11節め、36頁7行め~37頁6行め「着く日を考えない」に、畑中氏の乗船したスクーナー「アラヌイ」が明け方にハオに着いたところ、36頁12~13行め「政府の船「タマラ」が/「アラヌイ」の後で泊って」おり、15行め「仏領ポリネシア勤務の三期目」の14~15行め「トゥアモツ行/政官のダムリー氏」がハオに来ていることを知る。37頁2~3行め「研究者に対しては少なから/ず羨望と好意をもっていた」ダムリー氏は「わたしに対しても行き届いた配慮があった」と紹介した上で、4~5行め、4月19日付(5)に引いた「あとがき」の謝辞に見えているアリイタイ氏について、

 十年来のコンビである彼の秘書アリイタイはダムリー氏の行くところには通訳をかねてどこへでもあらわれた。アリイタイは、マオリ族の原郷ライアテア島の王族の末裔である。‥‥

と紹介しています。そして12節め、37頁7行め~38頁17行め「思いがけない人がいた」に、このアリイタイ氏から紹介される形で、2020年11月1日付「赤いマント(294)」の最後に私が疑問を呈し(てしまっ)た、タヒチの、日本人鉱山労働者の子孫が登場するのです。
 冒頭、37頁7~16行め、

ハオではタバナ・ハウ(行政官)のダムリー氏を迎える大勢の人びとが海岸に出て/いた。アリイタイからわたしの乗っていたスクーナーにプカルアの学校に赴任す/る先生が乗っていることを知らされた。イヴェール・ビアンといった。十九歳、/教員生活二年目の若い男の先生である。イヴェールはタヒチ人、フランス人、日本人、中国人/の混血である。西洋と東洋のよいところをとったなかなか立派な顔をしている。母方の祖父が、/明治末期マカテアの燐鉱島に契約労働者できた日本人であった。その祖父は三年の契約後、日/本へ帰っており、彼の母もその祖父を覚えていない。イヴェールは祖父の名だけは母から聞い/ていたが度忘れしてわたしの前で思い出せなかった。彼にとって祖父はもう他人同様である。/日本人の血をもつイヴェールに会って、コスモポリタニズムは消えてしまう。「プカルアのよう/な僻地で二年ほど辛抱しなければならない。第一食物がない」、彼の口から溜息しか出なかった。


 38頁上右には、下にキャプション「 “ぼくの祖父は日本人だ” というタヒチ人/ イヴェールと彼を慕うプカルア女」を添えた写真が掲出されていますが、確かになかなかハンサムな男性です。なお、イヴェールは、65~123頁「Ⅴ 招かれざる客/――人間の偉大な生命力――」の22節め、116頁9行め~117頁8行め「「学校教育が遂にやってきた 」の後半から再登場するのですが、117頁1~3行め、

 イヴェール・ビアンは開校以来六代目の教師である。教師はみなタヒチにある公立あるいは/ミッションの教員養成所を出ていた。初代を除けば、みな十九歳から二十二、三歳の青年であ/る。この青年教師に二つのタイプがみられるようだ。怠慢型と暴力型である。‥‥

とあって、ちなみに開校は116頁9行め「一九五六年」です。それはともかく23節め、117頁9行め~118頁9行め「P・T・Aはなかった」の書き出しは「イヴェール・ビアンは後者のタイプであった」つまり暴力型で、120頁上に「スパルタ式教育のため子供たちにとっては/学校は楽しい所ではなかった」とのキャプション(左詰め)を下に添えた教室の写真が掲出されていますが、先入観もあってか非常におっかない雰囲気に見えます。この節の題は、当時日本でPTAが教師にクレームを付けるようになったことを踏まえておりましょう。26節め、120頁6行め~121頁4行め「長いものに巻かれてしまう人びと 」に説明されているように、120頁6~8行め「プカルアの人間はフラン/ス人に対すると同様タヒ/チ人に対しても卑屈」で、12~14行め、誰も「この教師の/子供たちに対する行きすぎた教育に対して/も抗議を申しこめ」ないのです。
 それには24節め、118頁10行め~119頁9行め「タヒチ人イヴェールの威信」と25節め、119頁10行め~120頁5行め「イヴェールの目立つおしゃれ 」に、118頁10~11行め「電池用レコードプレーヤー、ラジオ、119頁テープレコーダー、モーターのついた自/転車、高所得など」と、119頁11行め「折り目のついたショートパンツ、のりのついたアロハシャツ」といった、10行め「みぎれいな服装」で、「タヒチ人の名誉を保」ち、118頁11行め「威信をたかめてい」るため、119頁15~16行め「イヴェールの/方から島の人に口をきくことはほとんどな」い、と云った辺りに、タヒチとプカルアの地理的・経済的格差が心理面にも影響を及ぼしていることが、指摘出来るわけです。
 さて、昨日問題にした、本書に扱われているプカルア滞在が昭和38年(から翌年に掛けて)である件ですが28節め、121頁12行め~122頁7行め「文明社会は野蛮である」にて、初めて世界史的事件と結び付けて明瞭に語られます。121頁12~17行め、

この単調な生活でわたしは一度、現実の世界にひきもどされたことがあった。ふ/とひねったラジオから流れたケネディ暗殺事件である。この悲劇が信じがたく、/わたしはイヴェールの所へ出かけていったがニュースのまちがいないことを知っ/た。「ケネディの死は国際状勢に大きな影響を与えるだろうし、どうなることだろう」と話す/とイヴェールはニヤニヤして「どうして?」という。タヒチ人にとってはケネディの死も隣人/の死も同じであった。当時すでにヴェトナムの緊張は加速度的に増していた。‥‥


 117頁16~17行め「はじめイヴェール・ビアンに、日本人の混血ということから親近感を抱いてい/た」畑中氏でしたが、17行め~118頁1行め「子供に対するせっかんを見ていて不快になり/彼との距離がはなれていった」のでしたが、こういうときにはラジオのある彼のところに行くよりありません。
 それはともかく、ケネディ暗殺事件は1963年11月22日12時30分で、ダラスとは4時間の時差のフランス領ポリネシアでは午前中にラジオで報道されたことでしょう。――これは畑中氏の行動を確認しないと算出基準が割り出せない「一年前」や「去年」よりも、確実です。(以下続稿)

畑中幸子『南太平洋の環礁にて』(6)

・プカルア滞在期間について(1)
 昭和36年(1961)12月にタヒチを訪れた北杜夫に、プカルアに渡る前の畑中氏は会っていて、そこで北氏に話した今後の計画について、2020年12月5日付(4)に、1~22頁「Ⅰ ポリネシア人を探しに行く/――フランス領ポリネシア――」の記述を確認して置きました。
 それを実行に移した時期ですが、これが甚だ分かりにくいのです。
 23~47頁「Ⅱ コプラが先か人間が先か/――タヒチ島からプカルア島へ――」の1節め、24頁1~13行め「これからどこへ 」を見ますと、冒頭、24頁1~4行め、

八月十三日「お盆の入り」、くにを離れて二年もたつ。
タヒチ島からトゥアモツ群島へむかうコプラ・スクーナー「アラヌイ」は、出帆時/刻が一応きまってはいるが、じっさいは「船長が帰船次第」である。しかしわたし/は、掲示された時間丁度にいくことにして、パペーテの港に近い市場へ買物に行った。

とあります。2020年12月5日付(4)に引いた「Ⅰ」章6頁12行めに「一九六一年、わたしはタヒチ島に渡った。‥‥」とありましたから、「二年」後の昭和38年(1963)らしく思われるのですが、それでは随分間が空いているような気がして、或いは畑中氏が日本を発ったのは昭和35年(1960)だったのだろうか、と疑いながら、2節め、24頁14行め~26頁1行め「救命具に集まる眼」まで読み進めると、畑中氏が手にしていた救命具に、主に現地人の乗客たちの視線が集まったところで、25頁3~10行め、

 「日本人だよ」、「どこへいくんだろう」、「プカルアだ」、「前にも住んだことがあるらしいぞ」。
 自己紹介などする必要はなくなる。彼らの遠慮のない視線をあびながらもなお、わたしはプ/カルアの人間があらわれるのを待つ。時間はかからなかった。操舵室後方のデッキに場所をと/っていたプカルアのアロナ・ルカが、「テレアハ」と上機嫌でおりてきた。彼は、わたしの本当/の名前は知らない。「テレアハ」とは、一年まえわたしがはじめて島へいったとき、島の人びと/からもらった名前である。歯ぎれはよくないが、「遠くへ旅立つ」という意味の名前をいただ/いて、わたしは「テレアハ」でおさまっていた。プカルアをはなれて以来、久しぶりに耳にし/た自分の名前だ。

との会話から、既にかなりその存在が知られていたらしいことが分かるのですが、何と「前にも住んだことがある」らしい、と云うのです。これに続いてプカルアの住民でタヒチの政府病院で瘍の手術を受けて帰郷する男性に「一年まえ」に「島の人びとからもらった名前」を「久しぶりに」呼ばれるのです。――これによって、この「アラヌイ」乗船が昭和38年(1963)8月13日であったことが明瞭になります。そして「一年まえ」以来の再訪であることも分かってきます。
 昭和37年(1962)初めて訪問したときのことは15節め、41頁1~8行め「われらホエ・フェディイ(一族)」、レアオで41頁1行め「去年プカルアにいた」人間に再会する辺りから、今回との比較で持ち出されるようになります。16節め、41頁9行め~42頁6行め「塩気のない御馳走」では41頁15行め「プカルアで以前わたしが住んでいた家」の持ち主に会っています。
 そして17節め、42頁7行め~44頁2行め「「エル」(ちなよ)」にてプカルアに到着します。42頁9行め~43頁2行め、

‥‥、わたしは荷物を点検し最後に下りた。子供たちが環/礁の浅瀬に出てとびついてくる。子供には裏切られることがない。ラジオメッセージでわたし/の日本名を知ったのか「サチーコ」と叫びながら、わたしの助手をしてくれたティナイアがと/んできた。いつもの通り大勢の人びとが浜辺に出ていた。プカルアにかえってきたのだ。やっ/と着いた安心感から全身の力が抜けてしまいそうであった。皆、ずいぶん色が黒くなったよう/だ。この一年にかなり老けていた。友だちテレイガの父、タフカは死んでいた。ガエハウはす/っかり成人してみちがえるほど美しかった。みなし児のフィリパは全然成長していなかった。/子供たちは多少大きくなっていたが変っていない。わたしにとって新顔の人も六、七人いた。/陸に上るや大人たちが近づいてきた。握手してきたり、女の人たちは頬にキスをしてくる。初/【42】めて島に上陸したときは出迎えた人びとに笑顔をおくってもいっこうに反応がなくていささか/不安を感じたが今度は、わたしは異国人ではなかった。


 さて、18節め、44頁3行め~45頁9行め「時間の流れない世界 」に、44頁7~9行め、

‥‥、この前おいてもらったタペタ・/ニウリキの家を訪れ、家がきまるまでと交渉にのりだした。彼女は、わたしが彼女の家に帰っ/てくるものとばかり思っていた。期待が外れて、少々ふくれていたところだったので‥‥

とある、12行め「一年前」のプカルア初訪問の期間と時期ですが、まづ期間については45頁4~5行め、

 二カ月足らずであったが予備調査のときにわ/たしは、タペタ一家とくらした。‥‥

とあり、時期については、173~194頁「Ⅶ 思いたったら最後/――一文なしの放浪の旅――」の3節め、177頁3行め~179頁3行め「パリジャンの感激」の177頁3~5行めに、

オーベルテール氏はトゥアモツ地方における農業指導の総監督で島嶼群をまわって/いた。わたしが初めてこのプカルアで彼に出会ったのは一九六二年の初めであった。/当時彼はパリから赴任してきたばかり。‥‥

とあって、後述しますが別の根拠からして、昭和37年(1962)の3月頃だったのではないか、と思われます。(以下続稿)

畑中幸子『南太平洋の環礁にて』(5)

北杜夫『南太平洋ひるね旅』との関連(2)
 『南太平洋ひるね旅』との関連と題して見ましたが、一応関連はしますが『南太平洋ひるね旅』に書かれなかったことの確認です。――既に2020年12月5日付(4)の段階で書くことは決まっていて、引用すべき箇所の見当も付けてあったのですが、何となくそのままになっていました。
 『南太平洋ひるね旅』に書かれなかったこと、と云うのは、2020年11月1日付「赤いマント(294)」に引いた、ブラジルの日本語日刊新聞「ニッケイ新聞」のサイト「ニッケイ新聞WEB」の2007年6月27日付「作家・北杜夫さんと独占インタビュー=ブラジル日本移民を書いた長編小説『輝ける碧き空の下で』=2回訪伯=日系人と心温まる交流=訪伯時のエピソードきく」で、北氏は

 タヒチに渡りましたら、タヒチの近郊の島での鉱山で働いた移民の子孫が二人、中心都市のパペーテにいまして、ちょうど人類学者の畑中幸子さんという若い女性の大学院の学生が残っていまして、彼女から島にはまだ他にも移民がいるらしいと聞いて、レンタカーを借りてタヒチを一周したんです。ようやく一人を見つけたんですけど、‥‥

と語っているのだけれども、『南太平洋ひるね旅』の、畑中氏とのタヒチ島タヒチ・ヌイ)一周ドライブの件を読んでも、移民に会ったことはもちろん、移民を探したことすら書いていないのです。ですから記憶違いではなかろうか、と思ったのですが、その後、少し探索の範囲を広げて見るに、2020年12月12日付「北杜夫『マンボウ響躁曲』(5)」に匂わせたように、記憶違いではなく、確かにこのインタビュー通りの体験をして、書くのは止めにしたらしいことが分かって来たのです。
 その後、『マンボウ響躁曲』から数年後の、奥野健男北杜夫の文学世界』の中公文庫版刊行に際して増補された『輝ける碧き空の下で』に関する奥野氏・北氏の対談に、3月17日付「奥野健男『北杜夫の文学世界』(6)」に引いたように「ニッケイ新聞」のインタビューと同じようなことを述べていたことを知りました。
 どうも、北氏の発言や記述には怪しげなところが少なからずあるのですが、この件については、敢えて書かなかったとの理解で良いように思われます。
 それはともかく、ここで、順序が前後しましたので今更の感もありますが、畑中氏の著書『南太平洋の環礁にて』から北氏の『北杜夫の文学世界』や「ニッケイ新聞」での発言の裏付けになりそうな記述を見て置こうと思うのです、
 そうは云っても、畑中氏は2020年12月5日付(4)に断ったように北氏に会ったことを書いていません。パペーテ滞在中に世話になった清野老人や、北氏に引き合わせた郵便局勤務の紺野老人についても、本文中には名前が出て来ないのです。両氏の名前は、僅かに219~222頁「あとがき」の末尾、222頁4~11行め、謝辞を連ねた2段落の1段落めに、4~8行め、

 プカルアの人びとにそしてド・アゴスチーニ夫妻(Mr. & Mrs. De Agostini)、オチノー博士(Dr. Ottino)、/タヒチ在住の紺野氏、清野氏、百々氏、タヒチ人のシュミット氏(Mr. Schmidt)、アリイタイ氏(Mr. /Ariitai)ら、協力と援助を惜しまなかった方々に心から感謝の気持ちをあらためておくると共にこの調査/のきっかけを与えて下さった大阪市立大学医学部、調査費を援助していただいた米国東西文化センターに/厚く御礼申し上げます。

と見えるばかりです。いえ、ここに未知の「百々氏」が登場するのです。私は、北氏と畑中氏がタヒチ・ヌイ一周ドライブの際に尋ね当てて面会したのは百々氏だろうと思っているのですが、それについては明後日見ることにして、その前に明日は、畑中氏の「調査のきっかけ」が「大阪市立大学医学部」によって「与え」られた、とする記述について確認して置きましょう*1。(以下続稿)

*1:4月20日追記】確認作業を諸々続けるうち、予定を変更したので見せ消ちにした。【4月21日追記】「が、それについては」以下全部を見せ消ちにしていたのだが、さらに予定を変更したので一部見せ消ちを外した。

赤いマント(325)

 昨日の続きで、ブログ「古新聞百物語」に紹介されていた、昭和14年(1939)2月23日付「東京朝日新聞」のコラム「青鉛筆」の内容について、簡単に確認して置きましょう。
・東京のラジオ放送の日時と内容
 さて、当時はテレビ放送はまだ開始されておりませんので「二十二日午後七時ニュースの放送時間に」と云うのはラジオ放送(AK=日本放送協会東京放送局)です。この放送については既に他紙の記事に出ていたものを紹介しております。
・「都新聞」昭和14年2月24日付(23日夕刊) 2013年11月05日付(015)

 ‥‥、更に廿三日午後七時のラヂオニュースの時間に一般家庭に対し、かゝる流言に惑されぬ様との放送をすることになった


 岩佐東一郎「赤いマント」は恐らくこの記事を使用。

‥‥、更にAKから一般家庭に対し、かかる流言に惑されぬ様との放送をすることになった」‥‥


・「報知新聞」昭和14年2月24日付(23日夕刊) 2013年11月15日付(025)

 なほ警視庁では流言飛語の徹底的取締を期するため二十三日午後七時からのラヂオニュースで布告を発する


 放送の内容については、2013年11月19日付(029)に引いた「東京だより」中央公論昭和14年4月号)にも、

‥‥。それから一両日するとラヂオのニュースの時間に、警視庁公示事項で『‥‥

と前置きして紹介されていました。
 そして、放送後に、警視庁情報課の江副課長のコメントを記事にしたのが、
・「都新聞」昭和14年2月24日付 2013年11月30日付(040)で、

AKでは昨廿三日夜七時のニュース、官庁告示事項後警視庁情報課発表として

と前置きして放送内容を記し、さらに放送のあった23日の夜に情報課長の家に詰めて、江副課長と娘2人との会話まで記事にしているのです。
 さらに、2月25日執筆と流言終熄前に書かれた唯一の雑誌記事、
・近藤操「旬評赤マント事件の示唆」
経済雑誌ダイヤモンド」第二十七巻第七号) 2018年9月5日付(163)にも、

‥‥、事実無根の旨を各方面に徹底させるやうに、管下の警察署宛てに達示し、二十三日の晩には其旨をラヂオでも放送した。‥‥

とあります。
 この他にもラジオ放送に触れる記事は幾つかありますが、放送日時を示している訳でも内容について詳しく触れている訳でもないのでここには挙げなくても良いでしょう。
 以上、共通しているのは2月23日夜、午後7時のニュースだと云うことです。
 しかるに「東京朝日新聞」は2月23日付で、2月22日午後7時のニュースとしています。しかし「都新聞」の放送前(23日夕刊)と放送後(24日朝刊)の記事からして、放送があったのはやはり2月23日夜だったのでしょう。
 そうすると「東京朝日新聞」は、警視庁から事前に報道機関宛に回って来た「警視庁公示事項」もしくは「官庁告示事項後警視庁情報課発表」の内容を、前夜に放送が済んだものと勘違いして書いてしまったもののようです。内容的には「此の男のために警察官までも犠牲となった」と云った辺りが他の新聞雑誌には見えないことが注意されます。(以下続稿)

赤いマント(324)

 それでは「東京朝日新聞」の、恐らく唯一の赤マント流言当時の記事を見て置きましょう。尤も、当ブログは私の蒐集記事集積所と云うべき場所で、公開はしていますからそれなりに読めるように努めてはおりますが、飽くまでも資料の原態を伝えることを旨としております*1。従って、読み易い形で知りたい方は、この記事の紹介者であるブログ「古新聞百物語」の、2016年5月23日付「青鉛筆〔流言赤マントの怪人〕【1939.2.23 東京朝日】」を御参照下さい。「赤マントを着た男が婦女子の生き血を吸うとの流言が東京中に広まり、警視庁が取締に着手。噂を事実無根と打ち消すラジオ放送を行った。」との内容を簡明に纏めたリード文があって甚だ親切です。
・「東京朝日新聞縮刷版」昭和十四年二月號通卷第二百三十六號(昭和十四年三月十日印刷納本・昭和十四年三月十一日發行・定価金二圓五十錢・東京朝日新聞發行所・378頁)
 日本図書センターの復刻版に拠ったのですが、時間に追われて復刻版の刊年等までメモを取って来ることが出来ませんでした。その他、色々見落しがありますので再見の際に確認して註か追記にて補いたいと思います。
 昭和十四年二月二十三日(木曜日)付「東京朝日新聞」第一萬八千九百九十六號、――縮刷版では夕刊4頁、朝刊10頁なのですが、朝刊の最後の頁の頁付が、この前後の号も含めて(一十)もしくは(一)なのです。奇妙だと思って(一)頁から見て行くと、どの号も(五)頁がない。(六)頁の頁付の位置からして、初めからなかった訳ではないらしい。そうすると原紙は、常識的に考えて4の倍数で12頁あったのでしょう。その5頁と12頁を「縮刷版」には再録しなかったもののようです。どうして再録されなかったのかは、いつのことになるか、朝日新聞記事データベース「聞蔵Ⅱ」閲覧の機会を得て確認したいと思います。
 それはともかくとして、「縮刷版」の昭和14年(1939)2月23日付朝刊の最終頁、11頁の頁付はかすれていますが「(一)」と読めそうです*2。14段組で最下部の2段は広告、コラム「青鉛筆」は12段めの左寄りにあります。最初の4行の上にイラストロゴ、体育座りで焚火に当たる頬被りの男のイラストに、手書きで右上から右下に「青鉛筆」のタイトル。以下、本文を抜いて起きましょう。▽は下向きの二重三角、ルビは附訓活字が多く殆どが均等。ルビがなく読点を使用している1字下げの箇所は2行ずつ示しました。

 ▽最近全市/一帶に亙つて/流布されて居/る惡質の流言/蜚語に對して警視廳情報課では/管内全警察署に流言の嚴重取締/方の通牒を發しデマ放送の犯人/檢擧を開始したが、依然兒童婦/女子に恐怖を與へる佝僂男の怪/奇デマが根強く流布されてゐる/ので二十二日午後七時ニユース/の放送時間に*3
  ▽最近市内の一部小學校や/ 女學校生徒の間に「夜間赤マ/
 ントを着た佝僂男が現れ、一/ 人歩きの婦人や子供の生血を/
 吸ふ」とか「此の男のために/ 警察官までも犠牲となつた」/
 と事實無根の流言が行はれ、/ 之が市内一圓に擴がつてゆく/
 樣な情況にあります、固より/ 斯樣な事實は全然ないのであ/
 りますから警視廳も嚴重に取/ 締つてゐます、皆樣も流言に/
 惑はされず今後一切他人とこ/ の樣な話をしないやう御注意/
 申上げます
と各家庭に尾鰭をつけて生んだ/デマの事實無根を放送*4
 ▽今後デマの放送者に對して/も容赦なく取締り惡質デマの根/絶に努める事になつた*5


 次回、私が数年前に掘り出しました新聞各紙の報道内容と比較して見たいと思います。(以下続稿)

*1:煩瑣な資料紹介を省いて要点のみを『昭和十四年の赤マント』と題して書籍に纏めたい希望。出来れば『わたしたちの赤マント』と題する日記・回想・小説のアンソロジーも編纂したい。

*2:アルファベットはその頁の版次の最終。

*3:ルビ「さいきん/たい・わた/ る ふ /あくしつ・りうげん/ ひ ご ・たい・けい し ちやうじやうはうくわ/くわん・けいさつしよ・りうげん・げんじゆう・しまり/つうてう・はうそう・はん/けんきよ・かい し ・ い ぜん じ どう ふ /きよう ふ ・せむし ・くわい/ き ・つよ・る  ふ //はうそう」。

*4:ルビ「 か てい・ひれ/じつ・はうそう」。

*5:ルビ「はうそう・たい/ようしや・しま・あくしつ/ぜつ・つと」。

赤いマント(323)

 さて、昨日の続きで朝倉喬司『毒婦伝』に赤マント流言が取り上げられていることと、そこでの扱いが他の朝倉氏の著書と食い違っていることについて確認しようと思っていたのだけども、他のことにかまけているうちに、ちくま文庫『犯罪百話 昭和篇能美金之助『江戸ッ子百話』下の返却期限が来て、前者は今月の頭に、後者は昨日、返してしまった。それでも何とかなるかと思ったのだけれども、出来れば両方、出来たら前者、さもなくば後者だけでも手許にないと、やはり書きづらい。
 そこで今回は予定を変更して、昨日出掛けた図書館で久し振りに新聞の縮刷版を見て確認した、赤マント流言当時の記事を紹介して置きましょう。いえ、紹介などと云うのは烏滸がましいので、実は紹介済みであったことに漸く2ヶ月前の2月18日、ちょうど82年前に赤マント流言が拡がり始めた頃に気付きまして、確認が済みましたので当ブログでも取り上げようと云うまでなのです。
 「古新聞百物語」は昔の新聞の埋もれてしまった怪異談、別の新聞の記事で有名になっている怪異談の異版などを紹介している興味深いブログで、タイトルに添えて「旧字等の異体字を通用字体に改め、適宜、句読点・「 」・改行を補った。ルビは必要と思われるもののみ残して< >に入れた。/\は「くの字点」。踊り字は平仮名・片仮名で揃える等、一部手を加えた。傍点部は斜字体で示す。〔 〕内は編者注。〔/〕は編者による改行。」とあるように、当ブログとは違って行き届いた校訂・語注がなされております。
 3月19日付「津留宏『一少女の成長』(2)」の余談に書いたように私も一再ならず、掘り出していた新聞記事を先に公開されてしまったことがあり、注意はしているのですが不定期更新なので往々にして(当ブログのように毎日更新でもテーマが不統一だとそれはそれで困るのですが)見落とすことになってしまいます。
 さて、問題の記事は2016年5月23日付「青鉛筆〔流言赤マントの怪人〕【1939.2.23 東京朝日】」で5年も前のものです。かつ、何と「東京朝日新聞」も赤マント流言を取り上げていたと云うのです。
 私はこれまで「東京朝日新聞」は赤マント流言を取り上げていないとしておりましたから、全く、確認が疎かであったことになるのですが、その理由の1つを挙げるとすると、小沢信男(1927.6.5~2021.3.3)が赤マント流言の記事を『朝日新聞縮刷版』から発見出来なかった、と云うことがあるのです。人のせいにする(!)ようですが、人間は先に提示されている調査結果や結論を信用して、そのまま受け容れてしまうものなのです。だからこそ、当ブログでは先行研究の瑕疵を見付けてはそこに突っ込みを入れ、大きな誤解や見落しが隠れていることを追究し続けて来たのでしたけれども。
 それはともかく、既に当ブログに報告してあることと重なりますが、この辺りの事情を確認して置きましょう。――すなわち、小沢氏が『東京百景』の巻頭に収録した「わたしの赤マント」には、2013年11月2日付(012)に引いたように、

 じつは先日来、広尾の都立中央図書館へ通い、昭和十三年秋以降の朝日新聞縮刷版二年分を調べました。赤マントの記事は一つも見あたりませんでした。‥‥

とあるのです。但し、これは小沢氏が恐らく『犯罪百話 昭和篇編纂過程で大宅壮一「「赤マント」社会学に気付いて修正したので、初出では2014年1月18日付(088)に指摘したように、

 じつは先日、広尾の都立中央図書館にゆき、同年度の朝日新聞縮刷版一年分を、半日かけて調べました。赤マントの記事は一つも見当りませんでした。‥‥

となっていました。同年度とは昭和15年(1940)です。時期が違っていますから見付からないに決まっているのですが、流言の流行時期を知った上で改めて「昭和十三年秋以降の朝日新聞縮刷版二年分を調べ」ても、2013年11月3日付(013)への、ブログ「本はねころんで」の vzf12576氏のコメントに紹介されている、2013年11月9日に大阪府茨木市で聞いたと云う小沢氏本人の当ブログに対するコメントにあるように、やはり「発見することができなかった」もののようです。尤も小沢氏がこのとき「東京朝日新聞」のコラム「青鉛筆」を発見してしまったら、「わたしの赤マント」にもう少々手の込んだ修正が必要になった訳で、見付けられなくて良かったのかも知れません。ちなみに小沢氏の記憶に残っていた記事は2013年11月3日付(013)に引用した「讀賣新聞昭和14年2月25日夕刊(26日付)の記事に間違いないでしょう。尤もこれは読売新聞のデータベース「ヨミダス歴史館」で検索してヒットしたものですから、発見者を気取って偉そうに出来たものではありません。――戦前に縮刷版を出していたのは東京朝日新聞大阪朝日新聞のみですから、データベースが整備される以前の他紙の記事検出は、原紙を閲覧するか、マイクロフィルムに撮影されておればリールを巻き取りながら原紙の数分の一の画面で見て行かないといけないので、大変面倒でした。
 データベースは一々紙面を見ていく手間を省いてくれますが、全文検索が出来るわけではないので往々にして、検索してもヒットしないのに記事があった、などと云うことになりがちです。――「朝日新聞」の記事検索・閲覧ですと、朝日新聞記事データベース「聞蔵Ⅱ」についつい頼ってしまいがちですけれども、漏れがあるわけですから頼り過ぎは宜しくない、「縮刷版」とその復刻版も揃っている訳ですから、一通りその辺りを見て置くべきだ、と云うことになろうと思います。(以下続稿)

赤いマント(322)

朝倉喬司『毒婦伝』(3)
 昨日の見た「阿部定」の章の能美金之助『江戸ッ子百話』に依拠した箇所の、続きを見て置きましょう。282頁17行め~283頁13行め、

 定の事件の約三年後の昭和十四年ごろ、東京に、少年少女を襲って生血を吸う「赤マント」出現の/【282】噂が広がったが、この噂にも「日暮里」が介在していた。
 「最近「赤マント」という言葉が、非常な恐怖と興味をもって、人々の口から口へと伝えられた。/その分布範囲は明らかでないが、東京全市をはじめ、その接続町村から近県にまで及んだのではない/かと思われる。これはまったく何の根拠もない流言で、およそ馬鹿ばかしいナンセンスにすぎなかっ/たのであるが、一時は帝都の全市民がまるで呪文にでもかかったように、この流言に迷わされたので/ある。(中略)
 もっとも、この流言には全然根拠がなかったわけではない。日暮里辺で佝僂の不良が通行の少女に/いたずらをしたとか、大塚か池袋で変態男が安全剃刀で通行の女に切りつけたと*1いう事件が事実あっ/たそうだ」(『中央公論』昭和十四年四月号所載、大宅壮一「赤マント社会学」)
 大宅が噂の根拠として指摘しているのは、根拠などではなく、それじたいが噂の「意味あり気な部/分」に過ぎないのだが、そこにやはり「日暮里」が、ぬっと顔を出しているのである。
 そこへ女が行けば「殺される」はずの尾久で、なんと、女が男を惨殺して逃げた。いまも、その女/はこの東京のどこかを逃走している。


(中略)までの原文は2013年11月20日付(30)に引きましたが、大宅壮一「「赤マント」社会学」の書き出し、「一」章の冒頭部分です。(中略)の後は2013年11月23日付(33)に見たように「二」章の冒頭部分です。
 それはともかく、上の引用の最後の段落で話は阿部定の殺人に戻って、続く238頁14行め~287頁7行めは、この「怪美人の行方」に関する新聞報道の盛上り、東京のあちこちで、さらには名古屋や大阪にまで阿部定の目撃情報が流れて捜査当局を右往左往させた様を活写して行きます。
 そこまで引用して置くと話は分かり易くなるのですが、長くなるので割愛しました。――何が言いたいのかと云いますと、上の引用のうち「赤マント」の件(282頁17行め~283頁11行め)は『毒婦伝』に必要だったのか、と云うことなのです。(以下続稿)

*1:原文はここに「か」あり。

赤いマント(321)

朝倉喬司『毒婦伝』(2)
 昨日の続き。
 装幀その他は文庫版と比較する機会を得て記述することとしましょう。
 取り上げられている毒婦は次の3人です。
・5~127頁「高橋お伝
・129~245頁「花井お梅」
・247~377頁「阿部定
 小沢信男 編『犯罪百話 昭和篇』を、朝倉氏がそれと断らずに使用しているのは、もちろん3人のうち唯一昭和に属する「阿部定」です。すなわち、犯行現場の尾久の待合「満佐喜」を後にしたところで1行分空けて、281頁10行めから。

 待合を出た定の眼前には、不安定に揺れながら傾いた街、いやいや、その年の二月に起きた青年将/校の叛乱の記憶もナマナマしい東京があったのだが、そんな東京を彼女はタクシーで、まず新宿へ向/かっている。
 尾久から新宿へ。
 昭和のはじめころ、
 「女は尾久へ行くと殺される」
という妙な噂、いまでいう都市伝説が市中に広がったことがあるのだという。【281】
 能美金之助『江戸っ子百話』に出てくる話なのだが、理由は簡明で、そのころ尾久で、商店の若い/主婦が白昼、たてつづけに三人、殺害されるという事件があって、犯人がなかなか上らず、ナゾがナ/ゾを呼ぶ式の噂が広がったのである。能美は記してはいないが、噂にはおそらく、尾久という地域に/対する隠微な「特別視」の感情がまつわりついていたのだと思われる。
 能美はまた、尾久と隣りあわせの日暮里について、こちらは大正のはじめ、
 「火事の名所」
という芳しからぬ定評が一般化したのだと述べている。
 「当時の日暮里は、襤褸やその他、廃物の蒐集地であった。下谷万年町その他の廃品業者が法令で/日暮里町に指定移住させられたのであった。火災が多かったのはそのせいで、その後、廃物業者を足/立の西新井に移転させたため、火事の名所という名称は日暮里町より消えた」
 述べられているのはつまり、明治から昭和にかけて都市東京の「近代化」が急進展するについての、/市街地の「スラム的なるもの」の、傍若無人な排除のヒトコマ。こうした排除の進行によって(地理的な与件と直接関係はなく)周縁化された地域に日暮里や尾久が属していたことを、これらの伝説/(の発生そのもの)が、よく示している。火事や「女が殺されること」が、地域の底深い特性と骨がら/みになった事象であるかのごとき噂の容態は、あきらかに地域の辺縁性に触発された想像力の介入あ/ってのものである。


 まだ続きますが282頁16行めまでを抜いて見ました。
 確かに、関東大震災までは東京府北豊島郡日暮里町が東京の市街地の北の外れに当たっていました。北豊島郡尾久村はその北に「隣りあわせ」ではありますが、下尾久(≒東尾久)上尾久(≒西尾久)などの集落と日暮里町の間には広い田圃が続いていました。それが関東大震災を契機に、荒川縁の北豊島郡尾久町(大正12年4月町制施行)まで市街地が拡大したのです。ですから「大正のはじめ」に東京の周縁(辺縁)であった日暮里町が噂(都市伝説)の現場になり、続いて「昭和のはじめごろ」に東京の周縁(辺縁)になった尾久町がまた別の噂(都市伝説)の現場になった、という指摘は、一見尤もらしく思われます。
 それはともかく、ここに引用されている能美金之助『江戸ッ子百話』ですけれども、標題の促音を片仮名ではなく平仮名にしてしまっている辺りからしても*1、朝倉氏がこれを愛読して「明治から昭和にかけて都市東京の「近代化」が急進展するについての」多くの事象を掘り起こそうと努めた結果の一端を、ここに活用して見せた、と云った訳ではないもののようです。
 朝倉氏が引用している箇所ですが、2014年2月20日付(120)に引用してあります。但し朝倉氏と同じく孫引きですので、今回は改めて原本の能美金之助『江戸ッ子百話』下、第九十八話「尾久の奇怪なる連続事件/及び阿部定騒ぎ」(昭和44年12月)から抜いて置きましょう。能美氏の本については2月25日付「能美金之助『江戸ッ子百話』(1)からしばらく確認しております。
 223頁13行め~224頁8行め、

 また、大正の初め頃、日暮里町に頻々と火事があった。その当時の東京人は恐れて、「日暮里町は/【223】火事の名所」としてしまった。当時の日暮里町は、襤褸や紙屑その他、廃物の蒐集地であった。下谷/万年町その他の廃品業者が法令で日暮里町に指定移住させられたのであった。火災が多かったのはそ/のせいで、その後、廃物業者を足立の西新井に移転させたため、火事の名所という名称は日暮里町よ/り消えた。
 それから尾久町である。昭和の初め頃より東京市民は言うた。「女は尾久へ行くと殺される」と。/それが、かなりの評判になったことがあった。それは、昭和の初年頃、荒川の尾久町で、若い商店の/主婦が三人、短時日のうちにあいついで白昼殺されたことから発したものであった。それで市民は尾/久を懼れて女は尾久へ行くな――と言ったのであった。


 朝倉氏は2014年2月20日付(120)に取り上げたPHP文庫『都市伝説王』や、2月24日付(313)に確認したようにその典拠である宮田登の諸著作のような誤読をしておりません。しかしながら、長くなったので次回に回しますが、続きを読んで行けば朝倉氏も、宮田氏と同じ典拠、すなわち小沢信男 編『犯罪百話 昭和篇』に依拠してこの辺りを発想していることが明らかになるのです。(以下続稿)

*1:文庫版ではこの標題は修正されておりましょうか。