瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

芥川龍之介「尾生の信」(09)

・『荘子』雜篇盗跖第二十九(1)
 「孔子倒れ」の語源となった(?)盗跖と孔子の問答に、尾生が登場する。『荘子』は学部生時代に金谷治訳注の岩波文庫で揃えた*1
岩波文庫33-206-4『荘子 第四冊(雑篇)1983年2月16日 第1刷発行・1993年10月15日 第16刷発行・定価553円・246+61頁

 雑篇11篇のうち8篇を収める。カバー表紙は本冊の巻頭に収める「荘子雜篇外物第二十六」の版本の巻頭部を白黒反転して使用している。
 93~133頁「盗跖篇 第二十九」の半分(93頁6行め~114頁)が「第一の説話で孔子世俗主義を批判して屈服させる大泥棒の」盗跖の弁舌を生き生きと叙述、捻くれた私なぞは大いに面白がって読んだのであるが、ここに尾生が持ち出されていた。だから私にとっての「尾生の信」は、どうやったって芥川のようにロマンチックにはならないのである。(以下続稿)

*1:【追記】当初予定ではここに4冊全て並べるつもりだったのだが、「盗跖篇」の載る第四冊しか出て来なかった。他の3冊は(今夏、例の世界的大運動会期間中に書類の整理を行う予定なので)見付かり次第補う予定。

芥川龍之介「尾生の信」(08)

 さて、これまで日本で「尾生(の信)」について説明のある書物、寛永六年(1629)刊『春鑑抄』明治39年(1906)刊支那奇談集 第二編大正元年(1912)刊〈故事/俚諺教訓物語』を見て来た。もちろん、まだまだあるであろう。
 7月9日付(06)に見た『春鑑抄』は「信をば知りて義を知らぬ人は、物事に過ちあるべきぞ。」として、尾生の「信」それ自体には悪い評価を下していないようである。「義」を分かっていなかったために「片落ち」になったと云うのである。7月6日付(03)に見た支那奇談集 第二編では「信」の「真意義を誤った事に、使われてい」て、「正直の上へ馬鹿の冠を蒙せる時と似たような意」つまり「馬鹿正直」のような意味だとする。7月4日付(01)に見た〈故事/俚諺教訓物語』になると「つまらぬ約束を守って、馬鹿な目に逢うことをいう」と、より結果を重視する。とにかく支那奇談集 第二編〈故事/俚諺教訓物語』は、説明に「馬鹿」を使っているところからも、尾生を尊重するような態度は認められない。
 私も、そのような意味で「尾生の信」を捉えていた。
 ところが、辞書を見ると、そうでもないのである。小学館日本国語大辞典を見てみよう。
 家には揃いで第一版の縮刷版がある。

・『日本国語大辞典〔縮刷版〕』第八巻(昭和五十年五月一日 日本国語大辞典 第十五巻発行©・昭和五十年七月一日 日本国語大辞典 第十六巻発行©・昭和五十五年十二月二十日 同 縮刷版第一版第一刷発行©・昭和六十一年八月十日 同 縮刷版第一版第八刷発行・小学館・1432頁・B5判上製本
 1413頁2段め(4段組)12~23行め、見出し行以外は1字下げ、〔〕は袋文字(中抜き)。

びせい‐の‐しん【尾生信】〔連語〕中国、春秋時代、魯/の尾生という男が女と橋の下で会う約束をして待っ/ていたが女は来ず、大雨で河が増水しても男はなお/約束を守って橋の下を去らなかったために、ついに/溺死したという「荘子‐盗跖」「戦国策‐燕策・昭王」「史/記‐蘇秦伝」などに見える故事から固く約束を守る/こと。信義の固いこと。また、馬鹿正直で、融通のき/かないこと。*性霊集‐五・為橘学生与本国使啓一首/「此国所給。衣糧僅以続命。不足束脩読書之用。若使。/専守微生之信。豈待廿年之期。非只転螻命於壑。誠/則。国家之一瑕也」*淮南子‐説林訓「尾生之信、不/如随牛之誕」 [発音]ビセイノシン〈標ア〉[ビ]=[シ]


 第二版もほぼ同じで空海の『性霊集』に〔835頃〕と成立年が添えてある他、句点を句読点に改め、返り点を補っている。――ここで気になるのは「微生之信」となっていることで、これが「春秋時代、魯の」人だと云うこととも絡んで来るのだが、この問題は追って取り上げることとしよう。或いは、これが、私の知っていた「馬鹿正直で、融通のきかないこと」と云う意味よりも「固く約束を守ること。信義の固いこと。」の方を先に示していること――『日本国語大辞典』が典拠として挙げている『荘子』『戦国策』『史記』のいづれも「馬鹿正直で、融通のきかないこと」の譬えとしか読めないのだが、――とも、関係しているように思われるのである。(以下続稿)