瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

中島正文 著/廣瀬誠 編『北アルプスの史的研究』(14)

・「山の蒐書入門」と「回想の岳人」
 2021年12月29日付(05)に年末年始のせいか閲覧出来なくなっていると述べた、第七章「山岳雑記」の初出である日本山学会の会報が、閲覧出来るようになっていたので、早速「日本山岳会」HP「会報「山」バックナンバー」にて閲覧した。
「山の蒐書入門」(『山岳会報』八六・八七号、昭和十四年五月・六月)
・500頁3行め~503頁9行め、中島杏子「山の蒐書入門」「會報」昭和十四年五月/86((昭和十四年五月 十 日印刷・昭和十四年五月十一日發行・日本山岳會・12頁)6~7頁の5段組のうち上3段。1頁5段め9~22行め「主要目次」には13行め「・蒐書入門………中島杏子… 六」とある(漢数字は半角)。
・503頁10行め~506頁12行め、中島杏子「山の蒐書入門 」「會報」昭和十四年六月/87((昭和十四年七月 十 日印刷・昭和十四年七月十一日發行・日本山岳會・12頁)6~7頁の5段組のうち上3段。
「回 想 の 岳 人」(『山岳会報』二二四号、昭和三十七年十二月)・(『山岳会報』二三八号、昭和四十年四月)
・507~510頁7行め、中島正文「回想の岳人⑴」「會報」1962年12月/224(昭和三十七年十二月二十五日発行・頒価二十円・日本山岳会・15頁)2頁(4段組)。
・「會報」1963年2月/225(昭和三十八年二月二十五日発行・頒価二十円・日本山岳会・15頁)15頁5段め、奥付の前、24行めに4字下げ「おことわり」とあって、続いて行間を詰めて「・回想の岳人(続)  /・沼井鉄太郎遺稿(続)」その下に「}」でこの2行を纏め「紙面の都合に」、次の行「 より掲載を次号に繰延べます    」とある。
・「會報」1963年4月/226(昭和三十八年四月二十五日発行・頒価二十円・日本山岳会・15頁)15頁5段め、奥付の前、20行めに3字下げ「お こ と わ り」とあって、続いて行間を詰めて「・「回想の岳人」 (2)  /・「沼井鉄太郎遺稿」 (続)」その下に「}」でこの2行を纏め「は」、次の行「紙面の都合により次号に掲載いた/します。」とある。
・「會報」1963年6月/227(昭和三十八年六月二十五日発行・頒価二十円・日本山岳会・15頁)にはこの2つとも掲載されておらず「おことわり」もない。
・510頁8行め~517頁6行め、中島正文「回 想 の 岳 人 (2)」「會報」1965年4月/238(昭和四十年四月二十五日発行・頒価二十円・日本山岳会・11頁)2~3頁、他の頁は5段組だがこの2頁のみ仕切り線なしで匡郭のみの4段組、2頁1段め3字下げ「烏水翁のこと その一」、3頁1段め3字下げ「烏水翁のこと その二」、5段め4段め28行め、文末に「 (終) 」とあるが本書では省かれている。そして29行め、6字下げ「×    ×」で仕切って、30~35行めにやや小さく行間を詰めて、

 <編集付記>
 本稿は二二四号(三十七年十二月発行)に掲/載の「回想の岳人」(1)の続篇です。原稿は早/く届けられていたのですが、いろいろの事情で/掲載がおくれましたことをここにおわびしま/す。

と断っている。本書を見ただけでは、何故「その一」と「その二」に分けているのか、それなのに初出が同じ号に「その一」と「その二」が纏めて掲載されたように示されている理由が分からなかったのだが、もともとは「その一」が「回想の岳人⑵」、そして「その二」が「回想の岳人⑶」としてそれぞれ4段組で1頁分になる分量で執筆され、昭和38年(1963)中に「会報」に連載されるはずだったのが、後回しにされ、結局続きの原稿は書かれないままになり、2年以上経過して漸く2回分纏めて掲載されることになったもののようである。
 1月3日付(10)に注意したように、「回想の岳人⑴」と「烏水翁のこと その二」には昭和17年(1942)の中島氏の上京時期に齟齬があって、昭和21年(1946)3月の津沢大火「日記メモ」類を焼いてしまったためかやや不確かな箇所がある。しかし、そうだとしてもこの連載が続かなかったことは、昭和43年(1968)4月に中島氏は中風で右半身不随になり、このような文章が書けなくなってしまったことを考え合せると尚更、残念である。(以下続稿)

長沢武『北アルプス白馬連峰』(2)

 昨日の続き。
 1頁(頁付なし)は「―発刊によせて―/ 白馬連峰への熱い思い」、執筆しているのは3行め下寄せ「白馬村 横 沢   裕  」で、第3代村長(1974~1990)。村長の序文をもらっているのは、奥付の左上に横組みで著者紹介「長 沢  武*1」1行分空けて、

 昭和6年神城村に生まれる。23年神城村役/場就職、31年北城村と合併し白馬村となる。/各課長を歴任し57年白馬村教育長。60年2月/退職。大町山岳博物館発足以来同館調査員・/嘱託員として今日に至るほか、山村民俗の会/会員、白馬村文化財保護委員。著書に『北ア/ルプス夜話』(信濃路)『食べられる木の実・/草の実』(信濃毎日新聞社)のほか『長野県山/菜・きのこ図鑑』(信濃毎日新聞社)『白馬・/後立山連峰』(実業の日本社)など共著多数。/住所は長野県北安曇郡白馬村大字神城。

とあるように、16歳か17歳で昭和23年(1948)地元の村役場に就職して本書刊行の前年の昭和60年(1985)2月まで、神城村→白馬村に37年程勤務していたからであろう。横沢村長の下で10年半ほど管理職として働き、そして53歳か54歳で早期退職している。なお、大町山岳博物館は昭和26年(1951)11月1日開館なのでこちらも長く関わっている。
 白紙があって3頁(頁付なし)は「目 次」の扉、4~7頁(頁付なし)に2段組。
 白紙があって9頁から本文、章の題は2段抜きの枠(17.5×1.0cm)の上部に「 一 序  章」の如く入る。
 内容は白馬連峰の百科事典のような按配で、細かく紹介して行くと長くなってしまう。今、そうする余裕がないので、それは別の折に果たすこととしよう。
 ここでは289~290頁「あとがき」から本書の成立に関わるところを見て置こう。
 289頁7~14行め、

 私は白馬村に奉職するようになって、地元の山の歴史ぐらいは、役場吏員として調べておかなければと思/い、勤務の余暇や機会を見て、関係図書をさぐり、古老の話を聞いたりして二十五年が経った。たまたま昨/年(昭和六十年)*2勤めを辞めることになったので、今までメモをしたり集めておいた資料を基に、〝この山の歴/史〟をまとめることにした。
 白馬岳の歴史については、すでに中島正史氏をはじめ多くの先輩たちが手がけており、私などの出る幕で/はないが、地元に住んでいるという地の利を生かして、広範囲の調査活動ができたのはたいへん幸いであっ/た。調べているうちに、遠隔地におられる先輩達が、こんなにも白馬岳の登山史について、情熱をもって調/べておられるのに、麓に住んでいる自分の努力足らずを恥じるようになった。


 290頁13行め、5字下げでやや小さく「昭和六十一年四月一日記」とあるが、その25年前は昭和36年(1961)である。
 中島正史はもちろん中島正文の間違いで*3、290頁5~6行め、

 白馬連峰の登山・開発しについては、明治十六年、当時の郡長らによる近大登山からでもすでに百余年が/経過している。富山側の記録に残るものはさらに古く、三百年以上の歴史があることが分かった。

とあるのも中島氏の研究を参照しているのであるが、長野県側では中島氏の研究内容は知られていなかったらしいことが察せられる。
 290頁4~9行め、

‥‥。本書は、これら白馬岳を中心とした、白馬連峰の登山とス/キー史であるが、執筆に当たっては北アルプス全体はもとより、できるだけ目を広い視野においたつもりで/ある。
 この本ができるまでには、『白馬岳史雑考』(中島正史)をはじめ多くの図書を参考にさせてもらった。ま/た大谷定雄氏をはじめ多くの古老から、記憶に残る話を聞かせてもらって参考とした。いちいち書名や氏名/は上げないが心から感謝申し上げる次第である。また‥‥


 2021年12月25日付「中島正文 著/廣瀬誠 編『北アルプスの史的研究』(01)」に見たように、中島氏の山岳史研究を纏めた『北アルプスの史的研究』は本書刊行の半月前に出ているので、初出「白馬岳史雑攷」を参照している。書名のように挙げているが、抜刷のようなもの*4を参照したのであろうか。
 「地の利を生かして、広範囲の調査活動ができた」と云う通り、地元の村役場で教育長などを務めた人らしく、地元の古文書や古写真を多く見て、活用しており、その意味で著者にその人を得、そしてこの著者ならでは内容、まさに理想的な著述で、私もこういう大きな対象のある場所の地元の吏員か教員として、地道に資料の掘り起こしをするような暮らしをしたいと思ったものだった。(以下続稿)

*1:ルビ「なが さわ たけし」。

*2:括弧内の漢数字は半角。

*3:本文中にも中島氏の著述にしばしば触れているが、そこでは、例えば23頁下段18行め「注2 「山岳」第四五年(一九五〇)「白馬岳史雑考」中(中島正文)P9」と誤っていない。西暦年は半角漢数字。

*4:例えば富山県立図書館が昭和50年(1975)に1冊本に私製した『白馬岳史雑攷』。