瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(81)

井出孫六 編『日本百名峠』(3)
 昨日は取材・執筆時期や執筆陣に触れたが、肝心の「 写真」の三橋秀年(1933生)に触れるのを忘れていた。初版345~346頁・新装版342~343頁に「全走行四万一千キロ」を寄稿しているが、三橋氏のみが100峠を全て走破しているのである。新装版で差替えられた写真は、三橋氏が改めて提供したのだろうか。
 と云ったところで(?)一昨日の続きに戻って「㉚御殿峠」の内容・写真について見て置こう。
 新装版には写真は「御殿峠」1つだけ、初版にはなかったもので、車1台分の轍の舗装されていない道で、御殿峠の旧道であろうか。
 初版には117頁の左上、上段の21行分とさらに上と左の余白も取って、下に左寄せで「車の行き交う現代の御殿峠」とのキャプションを添えた、東京環状線(国道16号線)の信号・横断歩道を北西から俯瞰した写真(13.7×12.6cm)を載せる。鑓水へ下る道が分岐しており、山野美容芸術短期大学はまだなく石垣が続いている。
 116頁下段、題下に9行分取っている縦長の写真(8.1×5.2cm)は、下に右寄せでキャプション「残骸となった道了堂」とあるが、「絹の道」碑と石段が写っているばかりである。
 これらの写真2つはどちらも広葉樹が繁茂しており夏の撮影らしい。昭和56年(1981)夏であろう。当時の道了堂は、6月12日付(73)に見た、2ヶ月早く刊行されたカラーブックス564『武蔵野歴史散策』の坂口よし朗撮影の「荒れはてた鑓水道了堂」と同じような状態だったと思われる。坂口氏の写真は晩秋から冬に掛けての撮影と思われるから、三橋氏の方が早く撮影しているはずである。木々が生い繁った中、向拝の屋根が崩れていたとすれば、確かに「残骸」と云うべき状態であったろう。結局最終段階で道了堂の写真ではなく道了堂入口の写真に差し替え、キャプションとの齟齬が生じてしまったらしく思われるのである。
 初版の写真はもう1つ、118頁左下(最後)下段11行分を取って、下に左寄せでキャプション「鑓水商人の屋敷跡」を添えた、八木下要右衛門家屋敷跡と思われる石垣と、その前の未舗装で車1台分の轍の道路の写真(8.0×5.7cm)。この、八木下要右衛門家屋敷跡前の道路が舗装されているかどうかは実は撮影年を判断するのに重要なポイントで、法政大学地域研究センター叢書5『歴史的環境の形成と地域づくり』所収の馬場喜信の論文、第一部「第七章 浜街道《絹の道》―歴史的景観の発掘と史跡化―」の、4月13日付(32)に検討した際に省略した箇所に、次のような記述がある。「第二節 《絹の道》―その歴史的景観の発掘と史跡化」の「(2) 《絹の道》史跡化への動き―行政・報道・出版など」の211頁16~18行めに、

 一九八〇年(昭和五五)に、八王子市の文化財保護審議会が、鑓水町の町会からの《絹の道》の一部を生活道路と/して拡幅・整備してほしいとの陳情を受けて、それまで史跡に指定されていた道の南側の区間の現状変更を認める/決定をした。‥‥

とあり、212頁10~11行めに、

 一九八四年には、鑓水三差路に「道路改修記念碑」が建てられている。これは、先に拡幅・改修が認められた道/の工事が完成したときの記念碑である。‥‥

とある。そうすると本書の写真は改修がなされる直前に撮影されたものと云うことになるのである。
 さて、井出氏が「御殿峠」を訪ねたのは、本文末(初版118頁下段13~15行め・改行位置「/」、新装版111頁上段20~22行め・改行位置「|」)に、

‥‥。私が絹の道を|訪れてもう数年/の時間が流れている。桃源郷のようなあの盆地|はいま、/いったいどうなっているだろうか。

とあって、本書の企画とは無関係であった。道了堂と八木下要右衛門家の屋敷跡について触れた箇所を抜いて置こう。初版118頁上段1~10行め・新装版110頁下段9~18行め、

 八木下要右衛門は石垣大尽とも呼ばれ、壮大な邸内に/は|「異人館」を建てて青い目のバイヤーたちを泊めたと/もいう。|その異人館はつい数年前まで、この鑓水の盆地/に往時の栄華を|語るように建っていた。絹の道華やかな/りしころ峠の上に建て|られた「道了堂」がいまもその残/骸を留めているが、地元永|泉寺に残る綿絵「道了堂境内/図」を見れば、京都清水寺を模|したような回廊で、道了/堂、子安堂、書院、庫裡*1が峠の頂に|軒を連ねている。
 その道了堂の残骸に象徴されるように、鑓水商人の栄/華は夢|のように束の間のものでしかなかった。‥‥


「綿絵」は新装版は「錦絵」と訂正してあるが単色刷の石版画のはずである。また「子安堂」は「子守堂」が正しい。
 初版では各項、最後の頁の上を灰色の太線(幅0.1cm)で囲み(4.7×13.9cm)にして、それぞれ3項目ずつの「周辺案内」にしていた。「周辺案内」は明朝体太字でやや大きく、項目はゴシック体、説明文は細い丸ゴシック体。「御殿峠」では118頁上。
 これが新装版では111頁下段で囲みではなく、やや大きくゴシック体で「周辺案内」として項目名も本文もゴシック体でやや小さく示している。(以下続稿)

*1:ルビ「 く り 」。

道了堂(80)

井出孫六 編『日本百名峠』(2)
 本書は『日本百名山』の模倣なのだが、名数好きな人が多いためか、Wikipedia にも「日本百名峠」項がある。100の峠が一覧表になっていて便利だが「『日本百名峠』(にほんひゃくめいとうげ)は、井出孫六が1982年に発表した随筆の書名。また、同書で紹介された100の峠も指す。」と云った説明で、これでは深田久弥のように1人で選んで1人で書いたみたいだ。「参考文献」は「・井出孫六編 『日本百名峠』 桐原書店、1982年」だけで新装版には触れていない。尤も、ここに「編」とあるから「井出孫六が‥‥発表した」のは「随筆の書名」で、個々の「随筆」は井出氏が書いたものに限らないらしいことは察せられるのだけれども、これでは峠に纏わる随筆100篇を集めたアンソロジーのようにも思えなくもない。
 本書で、こう云った辺りの事情を簡潔に纏めてあるのは前回も触れた、新装版巻末の、井出孫六「新装版あとがき」である。井出氏の著書『歴史紀行・峠を歩く』に目を止めた、桐原書店社長山崎賢二(1929.5.5~2000.3.21)が、364頁10行め~365頁1行め、

‥‥、日本の百名峠をまと/めてみないかと言ってくれたのが、本書が生まれるきっかけだった。深田/久弥さんの驥尾*1に付して、百名峠をまとめたいという思いは強かったが、/それは生涯をかけるような仕事だ。山崎さんはいますぐにという。山崎さ/んのことばにわたしが引かれたのは、多くの峠が新道の布設やトンネルの/掘鑿などで、急速に草むらのなかに消えかけていたことが気になっていた/からである。そこで全国の名峠をよく知る方々に集まっていただいて手わ/けして歩いていただくことになったのだが、まず百の峠を選ぶ作業から始/【364】めなければならなかった。


 そこで363頁3~4行め「数千の峠から百にし/ぼるところから編集作業」を始め、5~6行め「山崎さんの督励もあって原稿のでき上り」が「早/かった」と云うのだが、編集に要した期間は、同様に編集の経緯を述べた、初版19~24頁・新装版4~9頁、井出孫六「峠に立つ ―序にかえて―」の初版23頁9行め~24頁17行め「㈢」=新装版8頁8行め~9頁16行め「(三)」によって、100の峠の選定が初版23頁22行め・新装版8頁20行め「一年前」であったとあって、末尾(初版24頁18行め・新装版9頁17行め)に「一九八二年三月十五日」とあるから昭和56年(1981)春から、以来、初版24頁6行め・新装版9頁5行め「あるときは蟬しぐれを背に、あるときは梅雨にぬれ、あるときは霜を踏んで」執筆者たちが全国の峠を歩いた、と云う訳で、記載内容は(一部昭和57年の初めまで掛かっているかも知れないが)ほぼ昭和56年のものと見て良かろう。
 なお、深田久弥日本百名山』には「峠に立つ」でも触れているが、桐原書店の山崎賢二社長のことは「峠に立つ」では触れていなかった。
 その執筆者については、初版は347~362頁「日本の峠一〇〇〇」まで頁付があって、1頁白紙、その裏、奥付の前の頁に「 執筆」12名と「 写真」1名が顔写真入りで紹介されている。1段に3人ずつで大きな枠(4.3×4.1cm)で1人分の見出しできっちり5段組。なお「目次」には「著者紹介」とある。新装版は344~362頁「日本の峠一〇〇〇」に続いて363頁「■執筆」12名と「■写真」1名、4段組で初版以後物故した人物も何人かいるのだが紹介文は同じ、顔写真は省かれている。
執筆」はまづ編者の井出氏、以下は50音順である。今後の検討材料にするため(生歿年)及び担当した峠の番号、執筆した峠の【数】を勘定して、示して置いた。
井出孫六(いで・まごろく)(1931.9.29~2020.10.8)
   1・3・30・68・99・100【6】
秋谷 豊(あきや・ゆたか)(1922.11.2~2008.11.18)
   2・25・26・45・58・65・66・67・69・98【10】
大滝重直(おおたき・しげなお)(1910.11.5~1990.7.4)
   19・21・22・28・29・31・35・47・53・54【10】*2
下重暁子(しもじゅう・あきこ)(1936.5.29生)
   59・60・73・74・75・76・77・90・91・92【10】
白石悌三(しらいし・ていぞう)(1932.12.20~1999.7.5)
   12・72・85・86・87・88・89・93・94・95【10】
高森忠義(たかもり・ただよし)(1932生)
   16・34・42・43・44・46・49・50・51・52【10】
田中澄江(たなか・すみえ)(1908.4.11~2000.3.1)
   32・41・48【3】
布川欣一(ぬのかわ・きんいち)(1932生)
   20・23・24・33・40【5】
藤崎康夫(ふじさき・やすお)(1936.3.30生)
   63・78・79・80・81・82・83・96・97【9】
真壁 仁(まかべ・じん)(1907.3.15~1984.1.11)
   4・5・6・7・8・9・10・11・13・14【10】
増永迪男(ますなが・みちお)(1933.7.9生)
   36・37・38・39・55・56・57・61・62・71【10】
山崎れいみ(1933生)
   15・17・18・27・64・70・84【7】
 10箇所を上限に、分担したことが分かる。井出氏の執筆は北海道と奄美・沖縄、そして御殿峠と洞ヶ峠である。すなわち、御殿峠そして絹の道(鑓水峠)には、かなり強い思入れがあったと云うべきで、実際、井出氏が編者だから選ばれたようにも思われるのである。(以下続稿)

*1:ルビ「 き び 」。

*2:「53 天城峠[あまぎ]」初版201頁下段10行め「天正十八年(一五七七)この半島は天領となって‥‥」は新装版183頁下段10行めでも訂正されていない。