2020-10-01から1ヶ月間の記事一覧
・北杜夫の赤マント(8) 昨日の続きで『南太平洋ひるね旅』の確認。 しかし夕方には体調不良も落ち着いて、ホテルに来た紺野老人に会って学者2人に引き合わされます。その場面、文庫版66頁6行め~67頁12行め、全集169頁下段20行め~170頁下段11行め、【11…
・北杜夫の赤マント(7) ここで『南太平洋ひるね旅』の本文を引用する前に諸本の比較をして置こうと思ったのですが、これは後日果たすことにして、ここでは赤マントに関連する記述に絞って見て置くこととしましょう。と云って、当ブログのことですから赤マ…
・北杜夫の赤マント(6) さて、ようやく本題に戻ります。 何故、10月26日付(288)に引いた『マンボウ最後の家族旅行』の赤マントに関する記述を「記憶違い」だと断言出来るのかと云うと、似たような記述が『南太平洋ひるね旅』にあるからです。 時系列に…
・北杜夫の赤マント(5) 昨日の続きで後半も見て置きましょう。異同があるのでここでは『見知らぬ国へ』200頁15行め201頁7~15行め(改行位置「|」)を抜いて置きましょう。灰色太字にした箇所が「創作余話 (3) 」3頁下段3~22行め(改行位置「/」)に…
・北杜夫の赤マント(4) 昨日の続き。 『南太平洋ひるね旅』の刊本や成立の事情については、文庫版の「後記」に簡単な記述があります。227頁2~6行め、 この本は、一九六二年四月に、一度新潮社から刊行され、その後一九六七年に新装版として復/刊したも…
・北杜夫の赤マント(3) それでは北杜夫の遺著『マンボウ最後の家族旅行』の「『楡家の人びと』独訳のことなど」の赤マントに触れている、最後の部分を抜いて置きましょう。単行本97頁3~11行め(改行位置「/」)・文庫版142頁2~11行め(改行位置「|」…
・北杜夫の赤マント(2) 『楡家の人びと』の材料については、2014年7月12日付「北杜夫『楡家の人びと』(06)」に、晩年のエッセイ集『マンボウ 最後の大バクチ』の記述を、2014年7月13日付「北杜夫『楡家の人びと』(07)」に見た「北杜夫全集月報 6」と…
・北杜夫の赤マント(1) 北杜夫『楡家の人びと』に取り上げられている赤マント流言を論考に活用したのは、本田和子(ますこ。1931.1.15生)が最初ではないかと思うのだけれども、本田氏がどのように取り扱っているか、当ブログでは2013年11月20日付(30)…
・五木寛之の赤マント(13) 昨日で切り上げるつもりだったのだがもう1点、今日(10月22日)重い本を借りて帰って来た成果(?)を追加して置く。 10月21日付(283)に引いた、「日刊ゲンダイ」連載「流されゆく日々」に回想される梶山季之との会話に出て来…
・五木寛之の赤マント(12) 10月11日付(276)に引いた『七人の作家たち』の「編者解説」には「朝鮮に渡って、各地を転々としながら」とあったが、五木寛之『わが人生の歌がたり』第一部『昭和の哀歓』や、「記憶の曖昧さについて」(「日刊ゲンダイ」連載…
・五木寛之の赤マント(11) 昨日の続き。 どうも、五木氏はこの「記憶の曖昧さについて」を、曖昧な記憶に頼りながら書いているらしい。そのため、過去に執筆したものとの齟齬が生じている、まさに「記憶は曖昧なのである。 2018年6月20日「連載10434回 記…
・五木寛之の赤マント(10) さて、五木寛之『人生の目的』にはこの他にも、冬に凍結した川でスケートをしたのは京城なのか平壌なのか、帰国後の五木氏の父の不本意な身過ぎの様など、気になる記述があるのだけれども、余り余計なことにかまけていると先に進…
・五木寛之の赤マント(9) 昨日の続きで、五木寛之『人生の目的』の5章め「わが人生の絆」に見える、五木氏の朝鮮時代、特に小学校についての記述を確認して置こう。 まづ1節め「人生の絆」だが、3項め、165~167頁7行め「小学校の教師だった父と母」は父…
・五木寛之の赤マント(8) 10月11日付(276)に引いた、昭和58年(1983)刊『七人の作家たち』の岡庭昇・高橋敏夫「編者解説」に「この間のことは、小説にも出てきますが」とあるように、五木氏は小説やエッセイに、朝鮮時代のことを繰り返し書いているら…
・五木寛之の赤マント(7) 10月13日付(278)の続きで、五木寛之『わが人生の歌がたり』第一部『昭和の哀歓』の第一章「はじめて聴いた歌」の7節め、36頁8行め~39頁「■ ソウルで聴いた流行歌」の冒頭を見て置こう。36頁8行め~37頁4行め、 当時のソウルに…
・青木純二の経歴(23) 手術明けでなく、コロナウィルスを気にしなくても良ければ、神奈川県立図書館にでも「神奈川新聞」を見に行くところなのですけれども、うっかり感染してしまう訳にも行かぬので、しばらく見合わせることとしましょう。 そこで今回は…
・青木純二の経歴(22) 昨日の続きで、山室清『横浜から新聞を創った人々』より青木純二に関連する記述を見て置こう。 まづ、青木氏が朝日新聞社から神奈川新聞社に移った事情であるが、252~253頁、7章め13節め「朝日新聞と「持分合同」」に拠ると戦時下、…
2019年10月28日付(142)に、横浜市中央図書館開館記念誌編集委員会 編集『横浜市中央図書館開館記念誌 横浜の本と文化』202~205頁「戦後の新聞事情」に青木純二の名が見えることを指摘したが、この節の執筆者、山室清の本に何か記述があるのではないか、と…
・五木寛之の赤マント(6) 昨日の続き。 五木寛之『わが人生の歌がたり』第一部『昭和の哀歓』の第一章「はじめて聴いた歌」の3節め、24頁3行め~27頁5行め「■青空に舞うブランコとチマチョゴリ」は、次のような村の記憶を述べた節である。24頁4~12行め、…
・五木寛之の赤マント(5) 昨日の続きで、五木寛之『わが人生の歌がたり』3冊について、カバーや紹介文等についてメモして置こうかとも思ったのだが、そういったことは文庫版と比較する機会を得てから果たすことにして、差当り、初出について確認して置こ…
・五木寛之の赤マント(4) 昨日の続きで『七人の作家たち』171~205頁、岡庭昇・高橋敏夫「編者解説」から、五木氏の経歴を述べたところを見て置こう。2段組で1段18行、1行23字。205頁4行めまで。対談形式になっているが、やはりどちらの発言かは分からな…
・五木寛之の赤マント(3) 昨日の続きで、2節め「アジアに対してどう責任をとるか」の最初の発言を見て置こう。135頁2~13行め、 五木 おそらく生粋の東京の人たちも、それから地方人というか、われわれにしても、ピョンヤンの人に/しても、北海道の人に…
・五木寛之の赤マント(2) 昨日の続き。 それではまづ、1節めから、五木氏の朝鮮半島滞在時について述べた部分を一部、抜いて置こう。「ききて」の発言は一回り小さく、五木氏の発言との間に1行分空白がある。岡庭昇と高橋敏夫のどちらの発言か区別されて…
・五木寛之の赤マント(1) 中村希明『怪談の心理学』には、2014年1月7日付(077)及び2014年1月4日付(074)に見たように、中村氏が昭和14年(1939)に朝鮮・京城で「赤マントと青マントの怪人」に恐怖した体験が述べてあるが、作家の五木寛之も同様の体験…
・青木純二原作映画『地獄の唄』(2) 念のため、「日活」HPでも確認して見た。 ・「地獄の唄 前篇」 地獄の唄 前篇 (じごくのうた1) 都新聞懸賞連載小説を映画化したもので、新入社の根岸東一郎、辻峯子を主役とし、「大地は微笑む」の合同監督の後に…
・青木純二原作映画『地獄の唄』(1) 当ブログで明らかにし得た事実が殆ど流布しないことを歯痒く思って、Twitter を始めたのである。しかし、殆ど効果は上がっていない。ただ tweet するだけでなく、follow したり follow back しないといけないらしい。…
・昭和56年頃に聞いた怪談ノート(24) この件については、昨日で打ち止めとするつもりだったが、久しく思い出すことのなかった先生や級友、校舎や行事の記述を久し振りに熟読して、少し思い出したことがあるので、補足して置きたい。 小学4年生のときの担任…
・昭和56年頃に聞いた怪談ノート(23) 中学2年生、昭和60年(1985)の夏(推定)に書いた、昭和55年(1980)から昭和57年(1982)に掛けて、私が兵庫県明石市大久保町高丘の、明石市立高丘東小学校で聞いた話を纏めたノートの記載は、前回までで全て紹介し…
・昭和56年頃に聞いた怪談ノート(22)附録 30~31頁。 30頁は1行めに2字下げで「附 録」とあり、1行空けて3行めから本文。31頁9行めまで、全文を抜いて置く。 ここには先生のしていた話、郷土の伝説、うたなどを/収めた。 学校ではやったうたに、 みっちゃ…
・昭和56年頃に聞いた怪談ノート(21)後篇⑪ 怪談(その十四)平荘湖 1行空けて29頁7~17行め、「先生」は■本先生で5年生のときのこと。 先生がこわい話をしたのは一回きりだった。加古川(市、兵/庫県)の○○池の近くに学宿にいったとき、その宿の人か/ら次の話…