瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

記述の方針

試行錯誤と訂正

これはもともと10月17日付「山本禾太郎「東太郎の日記」(10)」の前置きとして用意したものなのだけれども、長くなってしまったので本題の方を先にして、別に投稿することにしました。 * * * * * * * * * * 私は山本禾太郎という名前を意識したの…

ブログ名について

山岸凉子の漫画本の書誌について書いているうちに閲覧数が落ち着いて来た先月の下旬、急に閲覧数が増えたのです。リンク元が増えた訳ではないようです。当ブログが検索候補の上位に来ることはあまりないので(来ているとすればそれはあまり検索されない語だ…

ネタバレと引用

当ブログは、本を主とするブログということになるのだろうけれども、書評ブログではない。一応書物系(?)なのだけれども、別段、読んで感動した本の魅力を伝えたいとか、そんな気持ちは、ない訳ではないけれども、常にある訳ではない。 基本は、突っ込みで…

中島京子『小さいおうち』(39)

前回7月15日付(38)に疑いとして示して置いた、著者が同時期を実際に生きた人間が書いた『楡家の人びと』のような同じ時期を扱った作品を全く読んでいないのかどうか、それから「都新聞」を調べなかったのか、については、そう感ぜられるというばかりで、――…

赤いマント(139)

中島京子『小さいおうち』の続き、として書き始めたのだけれども、全く登場しないままになったので標題を替えた。なお、「赤いマント」の記事は敬体で書いていたのだけれども、今回は常体で書き始めたのでそのままにして置く。 * * * * * * * * * …

楠勝平『おせん』(1)

東京に出て来て浪人していた当時、教科によって出来に酷い偏りがあったので、予備校は英語を専門としているところに入り、他に大手予備校の単科の国語と世界史を受講した。正直、国語と世界史は受講しなくても良かったかも知れない。それで、かなり自由にな…

記述の方針について

12月3日付「赤いマント(43)」にて予告した通り、今日は「赤いマント」ではなく、長くやっているうちに乱れて来た記述の方針について自分でも確認して置こうと思った次第です。 当ブログの基本方針は開設時の2010年12月30日付「御挨拶」にて述べた通りです…

謬説の指摘(4)

「批判」に腹を立ててしまうような「先生」が、万事このような頑なで、権威主義的だったりしたら、話は単純なのですが、そうではありません。自分に「論」のある事柄については、話が出来なくても、そういうものがない題目に関しては、驚くほど鋭い判断力を…

謬説の指摘(3)

ところで、従来の通説への対し方も、さまざまです。「いけない」説を徹底的に批判する場合もありますし、そっちを殆ど無視して専ら自らの「よい」説の正当性を強調するか、いろいろですが、それはまぁ、戦略です。効果的な出し方をする訳です。死後も崇拝者…

謬説の指摘(2)

ところが、学界というところは基本的に「金持ち喧嘩せず」の世界で、謬説の修正ということに消極的です。 ある主題について、その時代の専門家でもない人物が思い付きで乗り込んできて、少々怪しい説を唱え、その説がそれなりに有名になってしまう、というこ…

謬説の指摘(1)

私は古典文学研究をやっておったのですが、そのとき、驚いたのは、古典の本文に基づかない、妙な理屈を展開した「論文」が少なからず存在することでした。本文を読む限りではこんな解釈は出来んだろう、と云うようなことを堂々と書いている。何故こうなった…

再びコメント欄について(5)

話が脇に逸れたついでに書いて置くと、――返事が来なかった、ということでは、このときも編集担当から返事が来ませんでした。査読結果を送ってしまってから、「掲載可」と返したのなら別に気にする必要もなかったのですが、「掲載不可」として返したので、そ…

再びコメント欄について(4)

後輩との一件は、こんなことになるなら、いっそ初めから私の名前で発表した方がマシなくらいでした。が、私の専門と時代は一致していましたが、正直興味のある分野ではなかったので、第一、その研究に、全く意義を感じなかったのですから。……何も教えてやら…

再びコメント欄について(3)

けれども、私にとって、このブログは交流よりも継続することに意味があるので、それに目下、毎日書き継ぐのでやっとなのです。私は、大学院では本当に酷い目に遭いました。途中、何度も無気力になり、不登校になったこともありました。たまたま職場に恵まれ…

再びコメント欄について(2)

続き。今回から文体を常体から敬体に変えます*1。 * * * * * * * * * * それから、これは育ち方のせいなのだけれども、手紙を出さないで縁の切れたことが、何度もありました。 父の仕事の都合で、小学校を3つ、中学と高校は別の地方に通ったのです…

再びコメント欄について(1)

金環日蝕は、よく分からなかった。確かにちょっと暗くなったけれども、やっぱり眩しくて見てられなかった。 * * * * * * * * * * 手紙が苦手である。 最初は長文の手紙を書く。書くべきことがあるから書くので、しかもくどい性格だから自然と長文…

高木敏雄の記事について(1)

昨日、高木敏雄の縁者の方から、問い合わせのコメントが入っていました。 このブログ、全く何を書いているのか分からないような状態で、とにかく毎日更新するということにして、惰性で続けているなぁと反省した次第です。 このブログの存在は、知人には全く…

改版・改装について

次の前書を付けてアップする予定だった記事がある。 別にこんなことを書く必要もないかと思うのだが、自分の見た本に特に異版についての情報がなければ、そんなものには思い至らないのが普通なので、その気付きにくい異版についてメモして置きたいと思って、…

コメント欄について

初めに、コメント欄は書き込めるが、アップしない、と書いたことを忘れて、うっかりアップしてしまった。それというのも、1ヶ月以上、コメント皆無の状態が続き、本人でもどういう方針だったか、すっかり忘れていたのである。 確かに、リンクを貼らせてもら…

「改版」について

「改版」というカテゴリで記事を書いている。今後、こういう類の記事が多くなるはずである。その理由について、少々説明しておきたい。最近は同じ版をそのまま*1増刷しなくなったというニュースを見たことがある。確かに、図書館の新刊の棚に並んだ中には、…

図書館派の生活

当ブログを始めて半月を経て、今のところ種が尽きる気配はない。いくらでも書くべきことは(読むべきかどうかはともかく)ある。いずれ怪談が占める割合が高くなる時期が来るだろうとは思ったが、初めからそうするつもりはなかったのが、早速こんな風になっ…

年齢と数字

断るまでもない、と思いながら敢えて念を押して置くが、戦前まで年齢は数えで勘定するのが普通だった。誕生日で加齢するのではなく、全ての人が正月に年を取るのである。だから、その年はずっと同じ年齢である。誕生日が分からないと年齢の勘定も出来ない満…

御挨拶

このブログは、瑣末亭主人の文学作品等についてのごく瑣末な指摘を連ねたものです。「文学とは何ぞや」だのという大きなお考えの持ち主の神経を逆撫ですることは必定ですので、細かいことの嫌いな方は、決して読んではなりません。かつ「お前の書いているこ…