瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

画博堂の怪談会(1)

 田中河内介の怪談が語られ(なかっ)た画博堂の怪談会については、東雅夫編『文藝怪談実話(ちくま文庫・文豪怪談傑作選・特別篇)』(二〇〇八年七月十日第一刷発行・定価900円・筑摩書房・394頁*1)に「史上最恐の怪談実話!?――田中河内介異聞」131〜201頁に徳川夢声「田中河内介」「続 田中河内介」池田弥三郎「異説田中河内介」長田幹彦「亡父の姿」鈴木鼓村「怪談が生む怪談」が収録され、東氏の解説「文人と怪談と」にも「都新聞」大正8年(1919)7月22〜23日付記事が紹介されている。

文藝怪談実話―文豪怪談傑作選・特別篇 (ちくま文庫)

文藝怪談実話―文豪怪談傑作選・特別篇 (ちくま文庫)

 また、同じ頃、岡林リョウのブログ「揺りかごから酒場まで☆少額微動隊」の、「2007-07-29百物語をやると人が死ぬ」「2008-06-28語ると死ぬ怪談・途中経過報告」「2008-10-17怪談田中河内介・調査報告その3−2」「2008-10-17怪談田中河内介・調査報告その2」にも関連文献の集成と整理が企てられており、特に「万朝報」から、死んだ話者の死亡記事を検出して紹介しているのが注目される。
 さて、この会は、大正3年(1914)7月12日に開催された。13日付「万朝報」にも記事の出ていることは岡林氏の指摘があるが、当日の写真が後日「読売新聞」に掲載されている。
 大正3年7月20日(月曜日)付第13373号、(五)面の右上隅に二段抜き。写真の上に横書きで「報画藝文」、下にやはり横書きで

い開を会の語物百で堂画博の橋京程のこで起発の等氏花鏡泉
たつ集数多が等優俳及家画年青の等氏郎八権岡平。三省山松た

とある(「博画堂」はママ。ルビなし)。写っているだけで広間に20人余り、見る人が見れば誰だか分かるかも知れない。奥に岐阜灯籠などの趣向や何が描かれているのかは分からないが掛幅も2つばかり。

『文藝怪談実話』に収録されている池田氏の「異説田中河内介」(中公文庫『日本の幽霊』幽霊の季節)には、「その後まもなく、主人夫婦が、あのスペイン風邪の流行の折に、相次いでなくなってしまったという。」とあるが、「読売新聞」には死亡記事と死亡広告が出ている。「東京朝日新聞」縮刷版では見つけられなかった。
 大正9年(1920)2月3日(火曜日)付第15389号の(五)面、12段目の右方に、

 画博堂夫妻逝く 京橋区柳町一画博堂松井清七氏(三八)は/去月二十二日流行性感冒に罹り爾来/日本橋病院に入院治療中同三十日午/後三時半死去せるが妻はつ子(三二)/も夫の病気看護中同病に感染し遂に/一日午後三時半死去せり葬儀は夫妻/同時に五日午後二時築地本願寺に於/て執行の筈 

とある。また同じ段の左方に太い黒枠で囲み、

画博堂主松井清七〈並/に〉妻は両人儀流行性/感冒に罹り死去/致候に付此段辱/知諸君へ御通知/申上候
 追て葬儀は途中行列を/廃し二月五日午後二時/築地本願寺にて執行可/仕候
大正九年二月三日
松井 梅子
〈親戚/総代〉林勇太郎
〈友人/総代〉渡邊庄三郎

とある。渡辺庄三郎(1885〜1962)が友人総代として見えるが、松井清七(1883〜1920)はつ(1889〜1920)夫妻とは同世代である。
 父がこの会に参加していたという銀座生まれの池田氏は、さらに「初七日の晩」の、「なくなった夫婦のあとに残された五つばかりの女の子」について、述べるところがある。

*1:2013年9月30日追記】第二刷を見た。第一刷と比較するに、奥付に「二〇〇八年八月五日 第二刷発行」の1行が追加されていること、奥付の前の1頁10点の目録4頁のうち、4頁めが全く異なる(1〜3頁めは一致)ことで、384〜385頁「【著者紹介】」や387〜386頁「初出/底本一覧」にも修正等はない。カバーは一致している。