瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

村松定孝『わたしは幽霊を見た』考証(03)導入

 次に、装丁について触れたいのですが、どうもカバーが複数種あるらしく、確認のため後回しにしようと思っています。
・いまでもゆうれいはいる!(6〜15頁)
 口絵に続いて扉(1頁)目次(2〜5頁、ここまで頁付なし)があります。これに続いて、「いまでもゆうれいはいる!」と題して、昭和44年(1969)から47年(1972)にかけての新聞記事を児童向けに書き直したものがいくつか列挙されています(6〜14頁)。以下、ゴシック体の見出しをそのまま示しましたが、参考までに地名も添えておきました。

■昭和四十五年八月 【東京新聞   ※ 福島県白河市高山町
■昭和四十七年七月 【読売新聞】   ※ 埼玉県浦和市北上川流域某所
■昭和四十四年十月 【東京新聞   ※ 福岡県糸島郡前原町/鶴ヶ坂
■昭和四十五年 北海道空知郡栗沢町  ※ 万年寺
■昭和四十七年七月 【読売新聞】   ※ 千葉県八千代市
■昭和四十四年九月 【荘内日報】   ※ 山形県余目町


 14頁の最後に(資料・文 今野しのぶ)とあり、15頁が村松氏のコメントになっていますが、冒頭「以上は、民俗学の勉強をなさっている今野しのぶさんという方に、主として、ここ数年の新聞記事をもとに書いていただいたものですが、……」とあります。後述するように、本書にも今野圓輔が登場していますから、今野しのぶは或いはその令嬢もしくは一族の方なのかも知れません。
 そう思って今野圓輔『日本怪談集幽霊篇』*1を見ると、「第六章 浮かばれざる霊/九 手まりをつく少女」の2話目(中公文庫版(上)177〜178頁)、昭和41年(1966)夏、福島県相馬郡鹿島町での幽霊の噂の末尾に(相馬女子高校生・今野しのぶ談・昭和四二年)とあります。やはり今野氏に近しい人物に間違いないようです。
 ちなみに、以下の本文中にも、囲み記事として同じような新聞記事の紹介があります。これは誰の執筆ともありませんが、やはり今野しのぶ執筆分なのでしょう。これにはゴシック体で見出し、文末カッコに出典があります。※頁・時期と場所を注記しておきました。

おばけ「カシマ」朝日新聞 昭和47年10月)※47頁 新潟県糸魚川市
地下鉄ゆうれい(読売新聞)※103頁 昭和47年7月3日・丸ノ内線新宿3丁目ふきん
めずらしいうまのゆうれい ※120頁 昭和40年・岩手県九戸郡山形村


 さて、村松氏は「科学の発達した、この現代の世の中にも、ゆうれいを見たという人や、おどろくような事実が、新聞などでも、しょっちゅう報告されて」いることからしても、「わたしたちの世界には、まだまだ、科学や理性ではときあかすことのできない、ふしぎな現象がたくさんあるのです」と展開させ、最後に「わたしは、ゆうれいがすきですし、わたし自身のふしぎな体験をも、ぜひ、みなさんに知っていただきたくて、この本を書いたのです。」と、これらの新聞記事から巧みに本文への導入を図っています。新聞記事と同等に位置付けたところに、本文の信憑性を高める効果が企図されていることは、間違いないでしょう。
 ただ、既に一部のブログでも話題になっているのですが、新聞記事と同じだけの信憑性が本文にあるかどうかは、検討を要するのです。たぶん、ないんです。いえ、まさか泉下の村松氏も、こんな暇な作業をする者が現われようとは思われなかったかも知れませんが……。

*1:現代教養文庫版と中公文庫版の異同については後日記述する予定