瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

村松定孝『わたしは幽霊を見た』考証(05)

 1月7日付(02)で、自伝小説『あぢさゐ供養頌』と随筆集『言葉の影像(かげ)』を資料として、と書いたが、これについてもう少し述べておくべきであろう。『言葉の影像』は随筆集なので、記憶違いはあるかも知れないが、意図して虚構を書くようなことはなかったと思われる。しかし『あぢさゐ供養頌』の方は、大衆文学研究会の第2回大衆文学研究賞(評論・伝記部門)を受賞しており、かなりリアルな研究生活の回想記のように読める*1のだが、実はかなり虚構が含まれている。詳細は後日取り上げようと思っている。しかしながら、それでも流石に家族や経歴など、基本的な設定は現実のままであろう、との予測から、『わたしは幽霊を見た』との比較資料に採用した次第である。
 もう「フィクション」だろうという結論を述べてしまったが、全くのフィクションという訳でもない。怪談を語るに際し、自分の体験にしたり知人の話にしたりしてリアリティを高める、というのはよくある小細工だが、同じようなことを村松氏は本書で試みているのである。以下の各話の考証では、その改変ぶりを中心に見ていきたいと思う。

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・ガラスまどのゆうれい(40〜50頁)

 この話、「幽霊」という題が付いていますが、幽霊が出た訳ではありません。深夜、村松氏が友人の葬儀から帰って、自室のガラス窓に映った自分の姿を友人の幽霊と錯覚した、ということなので、それから夢にも幾夜となく現れたというのですが、要するに、遺書も残さずに死んだ親友に対する「心のこり」が、このような「まぼろし」を見せたのだろう、と村松氏は解釈しています。
 まず「親友白川くんの自殺」という節から始まっていますが、この部分(40〜41頁)は全文を引用しておきましょう。

 ところで、わたしには、中学のころからの級友で、ごく親しくしていた白川喜代次くんという友人がおりました。
 かれとわたしとは、中学を卒業すると、いっしょに同じ大学の文科に進み、たがいに、きよちゃん、さだちゃんとよびあうなかでした。
 ところが、白川くんの家庭はゆたかでなく、大学まで進んだのは兄弟のなかでも、喜代次くんひとりでした。
 かれは、じぶんの家がびんぼうなのを、たいへん気にやんで、そのうえ、かれ自身病弱だったので、それを苦にしており、せっかくすぐれた才能を持ちながら、昭和十二年の夏、あわれにも、毒をのんで自殺してしまったのでした。
 白川くんは、いまも、小説家として、劇作家として、さかんにかつやくしている北条誠さんたちと同じ演劇のグループにぞくし、戯曲もいくつか書いていた有望な青年だったのですが、魔がさしたとでもいうのでしょうか、ある日、とつぜん、死んでしまったのです。


 1月7日付(02)に挙げた村松氏の略歴を見れば「中学」は第一東京市立中学校、「大学」は早稲田大学だとすぐに見当が付きます。
 41頁の上半分には、木造校舎の前での、学園祭らしい記念写真が掲載されています。キャプションに「←じるしが白川くん,⇦ じるしがわたし」とあって、前列の「文學……背負ふ者……」と書いた紙を持つ人物に「⇦」が、その2列後ろの丸眼鏡の人物に「←」が附されています。この写真が、この話をリアルに感じさせてくれます。
 しかし、この白川喜代次とは、実在の人物なのでしょうか?
 そう思って、検索してみますと、「日本の古本屋」に

『白川喜代次遺作集』北條誠村松定孝弓削徳介阿部毅他編、昭13、函非売300 附略歴
白川喜代次追悼号「新神話」7号、昭13 附年譜

が挙がっています。この古書店のデータにある『遺作集』編者連名が、「いまも、小説家として、劇作家として、さかんにかつやくしている北条誠さんたちと同じ演劇のグループにぞくし」と重なってくるようです。
 前者は国会図書館に所蔵されています。OPACの書誌情報の一部を示すと、

原本代替請求記号   YD5-H-特203-800 (マイクロフィッシュ)
タイトル   白川喜代次遺作集
出版地   東京
出版者   白川一郎‖シラカワ イチロウ
出版年   昭和13
形態   253p ; 19cm


 以前からマイクロフィッシュになっていた訳ですが、今では近代デジタルライブラリー(館内限定公開)で、館内のA端末にて閲覧することが出来ます。やはり原本を見たい気はするのですが、購入する余裕はありませんから、仕方がありません。(以下続稿)

*1:ちなみに同時受賞は「研究・考証部門」の新青年研究会新青年読本』(作品社)であった。