瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

村松定孝『わたしは幽霊を見た』考証(08)

・月光にうかぶ海軍少尉の霊(64〜82頁)
 これは「死に直面したむすこさんが、ご両親や兄弟をしたって、霊となってあらわれた話」(64頁)で、第1話の「生き霊の怪」と同じパターンです。
 この一家は、

 山梨県の河口湖の近くに、いまでも元気におくらしになっておられる中山先生は、明治時代から、すぐれた少年小説を発表されたり、フランス文学の翻訳者としても、数数のすぐれた業績を世に出された方です。
 中山先生には、五人のお子さんがあり、五人ともそれぞれ、じぶんの希望する道に進んだのですが、そのうち、次男の勝彦さんは、昭和十六年、日本が連合国に宣戦を布告されると同時に、海軍少尉として出征しました。

と紹介されています(64〜65頁)。「おくさん」も「やさしくて上品な面もち」(66頁)の人で、「うちでは、わたしも家内も、むすこもむすめも、だれかが、かわるがわるピアノをひいている」(65頁)という家庭環境です。
 この中山先生ですが、ネットで検索しても、ヒットしません。「ガラスまどのゆうれい」「本を読みにくる亡霊」では実名だったのですが、ここはモデルが実在するとして、仮名にしているようです。実はここまでに示された内容だけでも、見当は付けられるのですが、もう少々設定を確認しておきましょう。
 この話の主人公「次男の勝彦さん」は村松氏と「おない年」とあります(65頁)。そして「五人のお子さん」の順番ですが「長男で大学生の順一さん、高校生の長女の正子さんと次女の敬子さん、そして、中学生の勝彦さん、小学生の明さんの五人」です(66頁)。なお、2人の娘について「高校生」とありますが、これは20頁の「女学校」つまり当時の高等女学校のはずです。女学校は5年制もしくは4年制で、現在の中学生(3年間)と高校生(1〜2年)に当たります。この頃は、5年制が主流だった時期でしょうか。「中学生」というのももちろん、旧制の、5年制(4年で進学可)の中等学校です*1。この辺りは、読者が混乱しないように戦後の制度に合わせて書き換えた、ということでしょうか。
 ところで、村松氏は「山梨県出身で先生と同郷である父につれられて」、「そのころ、……、東京の西荻窪に住んでおられ」た「中山先生ご一家」と初対面している(65頁)のですが、その時期は「勝彦さんが出征したのは、それから十年後のことです。」(67頁)とあって、出征時期は先にも触れたように昭和16年(1941)ですから、ここは村松氏の略歴を見ても、昭和6年(1931)で矛盾はありません。
 そして、「中山先生一家が、ふしぎな体験をした」、「昭和十八年四月十四日の、午後九時」(74頁)を迎えるのですが、そのときの家族構成は、次のようになっています(73〜74頁)。

 そうしたときに、中山先生のお宅では、長女の正子さんがとつぎ、敬子さんも女子大を卒業して、九州久留米の女学校の先生になっていたので、家には先生ご夫妻と、長男の順一さん、それに、すえっ子の明さんだけがのこっていました。
 順一さんは、電気工学関係の仕事で研究所につとめており、明さんは大学生になっていました。


 この一家のモデルですが、中山先生はすなわち中村星湖(1884.2.11〜1974.4.13)です。完全に一致する訳ではありませんが、他の候補はあり得ません。次に、どこが一致してどこが改変されているのか、確認して行こうと思います。(以下続稿)

*1:但し、この2人が「勝彦さん」より年上の設定であることは、68頁に「下のおねえさんの敬子さん」「上のおねえさんの正子さん」とあって間違いない。