瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

村松定孝『わたしは幽霊を見た』考証(09)

 中村星湖の年譜で、図書館等で参照しやすいのは『明治文學全集』72(一九六九年五月二十五日初版第一刷發行・一九八九年二月二十日初版第五刷發行・筑摩書房・429頁)所収の榎本隆司編の年譜(409〜416頁上)でしょう。それから、紅野敏郎編『精選中村星湖集』(1998年11月30日発行・早稲田大学出版部・465頁)巻末の「中村星湖年譜」(417〜465頁)がありますが、これは山梨県立文学館が主催した「中村星湖展」(1994.10.1〜12.4)の図録『中村星湖展』(編集発行 山梨県立文学館・一九九四年十月一日発行・80頁)の「中村星湖年譜」(63〜75頁)の再録です。この図録には子供たちのことについての情報はありません。

精選 中村星湖集

精選 中村星湖集

 この他、月の江書店HP中の、内藤成雄(みちお・1920生)の「富士北麓の文人たち」(初出は「毎日新聞」地方版か)の「中村星湖」は文字化けが多くて読みづらいのですが、年譜にない情報もあって参考になります。
 以下、『明治文學全集』掲載のものを【A】、『精選中村星湖集』掲載のものを【B】として、主としてその家族に関係する記事を抜き出して、整理してみたいと思います。【A】を基準として、これに見られない情報について【B】を併記します。月ごとに一つのまとまりと捉え、省略した箇所は「……」としました(ひと月まるまる省略した箇所には何も入れていません)。年齢については、【A】の数えを採ります。【B】は満年齢で年齢を表示しているのですが、以前にも示した理由で明治生まれの人の年譜を満年齢で作ると問題が生じます。【B】の年譜でも、本人は満年齢で表示しているのに、父(1864〜1922)は「五九歳」、母(1866〜1943)は「七八歳」、長女(1913〜1917)は「五歳」と、本人以外は数えで没時の年齢を示すという不統一が生じています。なお、本人死去の年齢は生前作成の【A】には入っていませんので、私が加えました。住所など一部は伏せ字(×)にしました。

▽明治十七年(一八八四)  一歳
【A】二月十一日、山梨県南都留郡河口村(現、河口湖町河口×××番地)に生まれる。神官(御師)であった家の両養子として、農業のかたわら生糸商を営む父中村榮次郎(元治元年生)と母ため(慶應二年生)の長男で、將爲と名づけられた。のち星湖と号し、銀漢子の筆名も用いた。四弟三妹がある。
▽明治三十六年(一九〇三)  二十歳
【A】春、上京、早稲田大学高等予科に入学。……
▽明治三十七年(一九〇四)  二十一歳
【A】九月、早稲田大学英文科に入学。……
▽明治三十九年(一九〇六)  二十三歳
【A】一月、「盲巡禮」(「老巡禮」を改題)が『新小説』の懸賞一等に当選。七月、……。『早稲田文学』の長篇小説募集にあたり、片上伸に激励されて夏休みの間、「少年行」の稿を進める。……
▽明治四十年(一九〇七)  二十四歳
【A】四月、……。「少年行」の一等当選が発表され(選者は二葉亭四迷島村抱月)、五月の『早稲田文学』に掲載される。……
▽明治四十一年(一九〇八)  二十五歳
【A】この頃、九段の暁星中学夜間部で仏語・仏文学を補習。……
【B】一一月、九段の暁星中学校夜間部でフランス人宣教師より、フランス語・フランス文学を補習する。……
▽明治四十三年(一九一〇)  二十七歳
【A】三月、……、船津村の井出まさじと結婚。
▽明治四十四年(一九一一)  二十八歳
【A】五月、……、長男誕生。
【B】五月、長男顕一誕生。
▽大正二年(一九一三)  三十歳
【A】六月、……、長女誕生。
【B】六月、長女道子誕生。
▽大正五年(一九一六)  三十三歳
【A】六月、……。『ボワリー夫人』を早稲田大学出版部から刊行したが発禁となる。次女誕生。
【B】六月、二女楠子誕生。「ボワ゛リイ夫人」発禁。
▽大正六年(一九一七)  三十四歳
【A】六月、……。長女を失う。
【B】六月、長女道子死去(五歳)。
▽大正八年(一九一九)  三十六歳
【A】一月、……。次男誕生。
【B】一月、二男文彦誕生。
▽大正十年(一九二一)  三十八歳
【A】十一月、……。三男誕生。
【B】一一月、三男仁誕生。
▽大正十一年(一九二二)  三十九歳
【A】四月、……。二十四日、父榮次郎歿す。
【B】五月、父榮次郎死去(五九歳)。
▽大正十三年(一九二四)  四十一歳
【A】六月、……。四男誕生。七月、東京府井荻町上井草に移る。
【B】三月、豊多摩郡上井草(現杉並区井荻町)に住居建築を始める。六月、四男岸児誕生。七月、転居。
▽昭和三年(一九二八)  四十五歳
【A】五月、渡欧。……
▽昭和四年(一九二九)  四十六歳
【A】六月、帰国。……
▽昭和十四年(一九三九)  五十六歳
【A】久留米高女に赴任する次女とともにはじめて九州に旅行。……
▽昭和十六年(一九四一)  五十八歳
【A】十二月、太平洋戦争勃発。次男、海軍予備少尉として出征。
▽昭和十八年(一九四三)  六十歳
【A】四月、……。次男、戦死。十一月二十四日、母ため歿す。
【B】四月、二男文彦戦死。一一月、母ため死去(七八歳)。
▽昭和十九年(一九四四)  六十一歳
【A】十二月三日、東京・井荻の自宅で被爆したが、奇蹟的に助かる。
【B】一二月、東京井荻の自宅で空襲に遇う。
▽昭和二十年(一九四五)  六十二歳
【A】五月、妻とともに郷里河口村に疎開晴耕雨読の生活に入る。八月、終戦
▽昭和二十四年(一九四九)  六十六歳
【A】六月、四男を交通事故で失う。
【B】六月、四男岸児死去。
▽昭和三十二年(一九五七)  七十四歳
【A】二月、妻まさじ死去。
【B】二月十三日、妻まさじ死去。
▽昭和四十九年(一九七四)  九十一歳
【B】四月一三日、杉並区西荻北×―××―××の長男顕一宅で死去。


 詳しい比較は次回に回しますが、次男文彦(1919〜1943)が「勝彦さん」のモデルで、大正8年(1919)1月生ということは、大正7年(1918)6月生の村松氏と同学年で、確かに「おない年」です。そして、昭和16年(1941)に海軍の少尉として出征し、昭和18年(1943)4月に戦死しているのです。