瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

村松定孝『わたしは幽霊を見た』考証(11)

 この話も、事実に基づいているように見えて、ここまでに確認してきた、モデル一家との齟齬もそうですが、話の内容も、やはりどこかおかしいのです。
 まず「ピアノをひく一家」(64〜67頁)として、村松氏の見た、昭和6年(1931)当時の「ほんとうの幸福」の中にある中村家が描写され、ついで「「月光」に聞きいった別れの宴」(67〜71頁)として、出征する「勝彦さん」を軍歌で元気づけようとする(中山)先生に対し、勝彦さんは「いや、軍歌じゃないほうがいい。ぼくのすきな『月光の曲』(ベートーベン作曲)を、ねえさん、ひいてくれないかな。」という訳で、「ピアノのまわりに、みなが集まり、敬子さんのかなでる月光の曲に、しずかに耳をかたむけました。」という場面になります*1。そして「月夜にずぶぬれの海軍少尉」(71〜77頁)になるのですが、ここではまず戦時下の日本について「思い出すたびに、さびしさとおろかさを感じます。」「まったくみじめなありさまでした。」「日本は、原子爆弾を広島と長崎に落とされたために、連合国側に無条件降伏したように書いている歴史の本もありますが、じっさいには、昭和十八、九年には、もうまったく勝ちめはなく、こんな戦争は、早くやめたほうがよい、という声が、ひそかに国民のあいだにはつぶやかれていたのでした。」(〜73頁)などと回想されています。
 そして、日本がそんな状況に陥っている「昭和十八年四月十四日の、午後九時」、「中山先生一家」は「ふしぎな体験」をするのです。これは次の「同時刻に乗艦は沈没」の節(78〜82頁)に跨っていますが、すなわち、「家族のものみんなに月光の曲が聞こえ、勝彦さんのずぶぬれのすがたが見えた」という体験を、「西荻窪のお宅」では「中山先生」と「おくさん」が、友人の下宿に行っていた「明くん」、「よめ入り先の正子さん」、「久留米の敬子さん」、それから記述がないのですが「順一さん*2」も、同時にします。そして、同じ体験をしていたことを知った「だれもが」、その海軍士官姿の勝彦さんは「うたがいもなく、勝彦さんの亡霊だった」と気付くのです。「戦死するまぎわに、月光の曲を思いうかべながら、海にしずんだのだろう。みなに、おわかれをつげにきたんだ……。」と。
 そして、「十日ほどたって」届いた「戦死の公報」が紹介されています(81〜82頁)。

「海軍少尉中山勝彦殿
 昭和十八年四月十四日午後九時、本邦東方海上において戦闘中戦艦△△甲板上にて、水兵の指揮にあたりおりしが、敵砲弾の炸裂を受け、名誉の戦死をとぐ。△△の船体もともに撃沈せられたるもののごとし。ここに少尉の武勲をたたえ、英霊の冥福を祈るものなり」
 日本海軍の精鋭をほこる多くの戦艦が、この日の海戦でことごとく沈没したことは、のちにわかったことですが、この電文には、勝彦さんの乗り組んだ軍艦の名は秘されていました。


 しかしながら、昭和18年(1943)4月14日には大規模な海戦はもちろん、そもそも撃沈された戦艦というものがどうも存在しないらしいのです。この頃行われていた海軍の作戦は「い号作戦」ですが、これは艦載機による空襲で、艦船には被害は出ていません。
 中村氏の次男について、中村氏の年譜には「四月……戦死」とあるのみで、その戦死の日付と戦死の状況までは調べられませんでした。昭和18年(1943)4月に範囲を拡大して撃沈された艦艇を捜してみると、3日の駆潜艇「13号」や5日の潜水艦「呂34」などが、その候補となりそうではあります。しかしながら、とにかく、14日という日付が正しいとすれば、戦死の状況が創作ということになりますし、戦死の状況が正しいとすれば、日時が創作ということになります。いずれにせよ、はっきりしたことは今後山梨県立文学館関係者により中村星湖の評伝がまとめられることを期待するよりありませんが、ここで私の見当を述べるならば、これも戦死の時刻に家族に姿を見せた、というよくある怪談に、遠縁の戦死した人物を絡めて……という疑いが濃厚のように思います。仮に、核になる出来事があったとして、村松氏は「……、それを聞いたわたしのむねをも、しめつけずにはおきません。」とまとめているのですが、事実を忠実に述べようという意志はなく、かなり自由な創作を交えているらしいことは、指摘できると思うのです。いえ、いっそまるまる創作ではないか、という印象を強く受けるのです。

*1:このときはまだ姉2人も実家にいたことになっています。

*2:79頁、最初にかかってきた電話を「どうやら明くんからのようです。」としていますが、明くんの体験したときの状況は80頁に述べてありますので、これは「順一さん」からとした方がすっきりするようです。