瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

村松定孝『わたしは幽霊を見た』考証(12)

・下宿屋マチュランのゆうれい(83〜104頁)
 まず最初の節(83〜85頁)の「パリの学生町」という題があって、次のように語り出されています(83頁)。

 さて、こんどは、すこし話の毛色をかえて、わたしが、外国で見たゆうれいの話を一つお聞かせしましょう。


 わたしがフランスの首都パリをおとずれたのは、一九六四年、いまから八年まえのことです。季節は、マロニエのなみ木が新緑に色づいている初夏でした。


 84頁左上には「まる屋根のパンテオンをかこんで広がるパリの学生町ラテン区(撮影 井上宗和)」との写真があって、この話の現場についての想像を刺激します。以下、「留学生Kのゆうれい」(85〜92頁)という少々長い幽霊出現についての因縁話があり、「伊藤さんの出現」(92〜96頁)そして「死霊のすすりなき」(96〜104頁)がクライマックスと冷静になって後の村松氏の感想、という構成になっています。
 さて、村松氏は昭和39年(1964)にパリを訪れたというのですが、1月7日付(02)に挙げた村松氏の略歴にも「昭和三九年七月  スイス・フリブール開催の国際比較文学会に日本代表団として出席。私学協会海外研究員として欧州に派遣。」と見えています。
 この初の外遊は村松氏に強い印象を残したらしく、この考証の資料としている『言葉の影像』の「旅路」の章(37〜94頁)などに収録されたいくつかの随筆も、このときの体験を述べたものとなっています*1
 「収録随筆初出一覧」の順序に従って、それらの随筆を確認しておきましょう(既に見たように、若干の書換えはありそうですが、初出の確認はしていません)。

  ・ローマのニンフ像(39〜42頁)*2
    【初出】ローマの女神像(昭和三九年「サントリー天国」三 サントリーKK)
  ・英人ダニエル教授の風格(57〜59頁)
    【初出】英人ダニエル氏の風格(昭和三九年一〇月一〇日北海道新聞
  ・オランダ、アンネの家をたずねて(60〜62頁)
    【初出】同題(昭和三九年一〇月一五日北海道新聞
  ・スイスの牛乳配達(43〜45頁)
    【初出】同題(昭和五二年五月「ミルク礼讃」日本乳業協議会)
  ・巴里のエリセーエフ翁(46〜56頁)
    【初出】同題(昭和五二年五月「学苑」昭和女子大学
  ・無名戦士の墓(241〜245頁)
    【初出】同題(平成五年七月「短歌現代」短歌新聞社

 このうち、この旅行について最も詳しいのは「巴里のエリセーエフ翁」です。旅行の目的も、46頁に

……昭和三十九年……この年、私は故太田三郎博士の推めによって、スイスのフリブール大学で開催された国際比較文学会第四回大会に参加することとなり、そのついでに欧州諸国に於ける日本語及び日本文学研究の実情を視察してくることを、当時、専任として勤務していた昭和女子大学に約した。幸いにも人見円吉、坂本由五郎両先生の御高配を得て、私は同年度の日本私学協会海外研修員という名目で渡欧することとなったのである……

とあって、明白です。なお、どこかに復命報告をしているはずだと思うのですが、OPACやCiNiiで検索した限りでは見当を付けられませんでした。この国際比較文学会にともに参加した武田勝彦(1929生)との共著で『海外における日本近代文学研究』(昭和43年4月20日初版第1刷発行・昭和50年4月10日初版第6刷発行・¥1200・早稲田大学出版部・238+14頁)という本を出しています*3が、これは「国文学 解釈と教材の研究」(學燈社)に連載*4した、海外の日本近代文学研究の紹介及び批評で、この旅行に関連する記述はないようです。
 また、主として51〜52頁により、フランス(パリ)→オランダ(アムステルダム)→デンマークコペンハーゲン)→ノルウェーオスロ)→スイス(8月末〜9月初の1週間・フリブール大学)→イタリア(ローマ)→ギリシアアテネ)→エジプト(カイロ)→帰国(秋)という旅程で、ダニエル教授に会ったイギリス(ロンドン)には、フランスの前に訪ねたらしいことが分かります。
 と、ここまで書けばもう、勘の良い読者には見当が付いていることと、思います。(以下続稿)

*1:昭和女子大から上智大に栄転する、そもそものキッカケにもなっているように思われます。

*2:「禁欲の果てに生じたアブノーマルな妄想」として、ローマ・ナヤアデイの泉のニンフ像に「欲情を覚え」、それがその夜のホテルでの夢では「日本に残してきた愛妻の顔に変じ」……「copulate の際には彼女を high position に置くのを好むので」……とこれ以上は引用しませんが、堂々たる惚気っぷりです。

*3:この「スイスでの国際比較文学会」での2人の同席の事実は、同書カバー裏表紙折返しの「福田陸太郎氏評」による。なお福田陸太郎(1916〜2006)もこの学会に出席していたようだ。

*4:昭和41年8月〜43年3月・17回。未見。