瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

高木敏雄『人身御供論』(2)

 既に2月10日付でも触れたように、後に四六判上製本で再刊されている。カバーは『日本伝説集』の四六判並製本に類するもので、表紙中央やや下に紫で江戸時代後期の版本挿絵「桃太郎」が印刷され、その上に横書き「人身御供論/高木敏雄」下に「宝文館出版」、背表紙は同じ文字を縦に配し、これは本体の背表紙も同じである。裏表紙は上部に「ISBN4-8320-1359-9 C0039 P2060E」とある。奥付にも定価の表示はないが、これは消費税3%込みの値段で本体価格は2000円であろう。私の見た本のカバー折返しは切除されていたが、これも『日本伝説集』と同様であったかと思われる*1。扉は横書きで「人身御供論/高木敏雄著/山田野理夫編集/宝文館出版」裏は白紙、次に縦書きで「目次」とのみ、頁付はないがここが1頁で、2〜5頁は昭和48年版に同じ、その次にあった装画・題字の表示は削除されているが、昭和48年版の装幀は平成2年版では全く痕跡を止めていない。これは『日本伝説集』も同じである。
 判型が違うが、本文の印刷されている寸法は15×9cmで全く同じ、つまり余白が減っただけで縮刷ではない。これも『日本伝説集』と同じである。
 山田野理夫「高木敏雄と人身御供論」という解説には、昭和48年版では2月14日付(1)でも触れたように、246頁までの本文との間に1枚白紙を挟んで、別の頁付(1〜21頁)が打たれているが、平成2年版では白紙はなく頁付もそのまま本文と連続させている(247〜267頁)。
 奥付は縦書きで「人身御供論 ©/一九九〇年六月六日 初版第一刷印刷/一九九〇年六月十一日 初版第一刷発行/……」とある*2。やはり昭和48年(1973)版には全く触れるところがない。

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 さてここで、山田野理夫編『人身御供論』に言及するものとして礫川全次 編著『生贄と人柱の民俗学(歴史民俗学資料叢書5)』(一九九八年五月二五日初版第一刷発行・批評社・345頁)に触れておきたい。
 この歴史民俗学資料叢書(第1期全5巻)は巻頭に「一九九六年八月三〇日」付の礫川全次「歴史民俗学資料叢書の発刊にあたって」という7箇条に及ぶ趣旨説明(1〜3頁)が載る。まず「一」「二」で礫川氏は「アカデミズム」が「好ま」ずその「体系の中」から漏れてしまっているものの、「人間存在の実相、本質にかかわる重要なテーマ群」に「本叢書では、…… あえて挑戦してみたい」と述べる*3。そして、「三」として次のようにある。これは全文を引いて置こう。

三、そのようなテーマであるゆえか、文献は「意外」にも極めて豊富である。高名な学者による、今日なぜか顧みられることがない論文もあれば、発表当時から今日まで黙殺されてきた、無名の研究者による実に優れた研究もある。これらを、テーマごとにまとめて紹介してゆくことは、重要な意味があると考えた。


 ここで「高名な学者」と「無名の研究者」とが対比されているが、中身は同じことである。要するに、発表当時に反響を呼ばずにスルーされたら、誰が書いても(偉かろうが無名であろうが*4)なかったのと同じことになってしまう。そのような例を当ブログでも出来るだけ多く発掘・紹介したいと思っているのだが、その反対に、大したことを言っていないのに、或いは既に早くに同じことを指摘した人がいたにもかかわらず、何故か賛辞とともに紹介されたりして有力な説になってしまう例もある訳だ。特に、同じ発想をした先行研究を探索せず存在を知らずに自説として発表してしまう手合いの場合*5、同じように先行研究に不案内の人々に、それ以前に遡ろうという努力を放棄させてしまうという点で罪が深い。しかも「アカデミズム」の世界では、こういう勘違いを「正面」切って指摘するのを忌む傾向があり、なかなかこの勘違いが訂正されない。その結果、手抜き調査が定説として評価され、先駆者はいつまで経っても埋もれたまま、という奇怪な現象も起こってくる。最近はデータベースの整備で手間さえ惜しまなければ見落としの可能性は減ったが、しかしデータベースが全てを網羅している訳でもなく、漏れが出て来る。それから、データベースの弊害として、これまで殆ど参照されなかった初出誌をやたらと挙げる人が増えたように思う。後に著者自ら修訂を加えて、どこの大学図書館(アカデミズムの場合は「一般の図書館」という訳には、なかなか行かない)にも所蔵されるような単行本に再録してあるようなものまで、わざわざ稀覯の初出誌(のみ)を挙げているようなケースだ。データベースには再録・修正・改題などについてフォローがなされていないから、安易に使って、不注意な人物に、埋もれた研究を発掘したかのような勘違いをさせてしまう危険性があると思う。初出に当たることも重要だとは思うが、当り前に見られる本に載っている改訂版が埋もれてしまうような、奇妙な現象が実際に起こりかねない。まぁこれは、自戒を込めて書いている訳だが……。
 随分脇道に逸れたが、礫川氏の趣旨説明に戻って「四」では「何かの論文を読んでいて、その論文に出てくる参考文献がどうしても読みたくなる」が「なかなか入手できない*6」という「状況」に対する「皮肉という意味」が「本叢書を企画したことには」ある、とする。
 「五」「六」では「本叢書では、基礎的で重要な文献、入手閲覧しにくい文献等を、…… 原型に近い形で」つまり「初出の形」で「紹介しようと努めた」。その理由として「半世紀前の版など、かなり読みにくいものもあるが、しかしこれを整版し直すと、思わぬミスが生ずるし、何よりも、発表された当時の「雰囲気」が失われてしまうからである」とする。そこでこの叢書では多くは雑誌論文を初出のまま影印で集録しているのだが、誤植や誤記などその後単行本収録に際して修正された(であろう)箇所がそのままになっている可能性はあるが、再録やその後の論の修正などの追跡*7は、利用する側が手間を惜しまずに確認してみるより他ない(その方法については、後日書こうかとも思っている)。
 「七」は省略する。以下、収録論考については、今後『人身御供論』の検討に当たって、適宜言及するつもりである。
 さて、高木敏雄「人身御供論(序論)」が118〜126頁に雑誌「郷土研究」第壹卷第六號(1913年8月)の影印で収録されており、116〜117頁に「⑥「人身御供論(序論)」 高木敏雄」として解説され、「全文は、…… 山田編の『人身御供論』で確認願いたい」と本書に言及しているが、文中「山田野理夫編の高木の論文集『人身御供論』、一九七三、宝文閣出版」「一九七六年、熊本県生れ」「一九二二年、東京外国語学校教授となり、同年から一年間のドイツ留学が決定していたが」など、誤記が散見される*8。まさに「整版し直すと、思わぬミスが生じる」好例みたいになってしまっている。

*1:確認出来次第追記。【3月1日追記】『日本伝説集』平成2年版カバー折返しについては2月10日付参照。

*2:【3月1日追記】裏は白紙。『日本伝説集』昭和48年版・平成2年版も同様で、広告などはない。

*3:「しかしそれらが無用な、あるいは瑣末なテーマなのかというと、断じてそうではない。」とも述べており、本ブログ的には耳が痛い。

*4:もちろん「高名な」方が埋もれにくく、発掘もされ易いだろうが。

*5:見落とされた先行研究が、その発表当時スルーされてしまったケースに限らないところが、頭が痛い。

*6:原文、ここに( )で括って「こう言っては悪いが、たいがいの論文は、その論文自体より、そこに紹介されている参考文献のほうが魅力的である」と述べてある。これにも同意するが、参考文献に溯ってみると、その論文では参考文献を読み違えたり手前勝手に都合良く解釈して利用しているケースも目につく。しかし、論文評価に於いてこのような《検算》は殆ど行なわれず、その論文の本文が(如何にも尤もらしく)筋を通してあれば、誤読や先行文献無視などがあっても評価されてしまう、ということになってしまう、らしい。

*7:【2月21日修正】以下、最初に書いた文の意味が通らないので(もちろん筆者として言いたかったことを書いているのだが)差し替えた。念のため投稿当初のものを挙げておく。「は、近代デジタルライブラリーなどネット上での本の公開も整備されてきたし、家にいたままでも手間さえ惜しまなければ、出掛けて行って雑誌初出を探すよりは楽なはずである。」

*8:念のため訂正しておく。宝文館出版、一八七六年、大阪外国語学校、翌年から、である。