瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山田野理夫編『遠野のザシキワラシとオシラサマ』(5)

 5頁(頁付なし)は中扉で昭和49年版・昭和52年版には「第一部 ザシキワラシ」とあったが昭和63年版では「ザシキワラシ」のみである(以下同じ)。確かに「目次」には昭和49年版以来「ザシキワラシ」(2頁)とのみで、部立に番号は振られていなかった。本文は裏の6頁から始まって154頁まで、155頁(頁付なし)は中扉「第二部 ワラワミコとダイダラボッチ」で本文は156〜196頁、197頁(頁付なし)は中扉「第三部 オシラサマ」で本文は198〜267頁である。
 昭和49年版ではカバー・扉・奥付に「監修 山下久男/編集*1 山田野理夫」と出ていたのだが、昭和52年版・昭和63年版ともに奥付に「編者 山田野理夫」とだけになってしまっているのと連動して、昭和49年版では「監修者の解説」と題されていた山下氏の解説(268〜283頁)は、後の2版では単に「解説」となっている。山下氏及び解説の内容については後述する*2。ここでは疑問箇所のみを指摘して置こう。
・270頁11 「互いに日本民俗研究について互いに意気投じたのである。」どちらか削除すべき。
・277頁15 「妖」 → 昭和52年版で「妖」と修正。
・278頁3〜4 平家物語からの引用の鍵括弧の始めがない。中公文庫版に至って「……出ている羽黒より、……」と補われる。
・280頁11 「小田内敏」13「小田内敏」は同一人物であろう。
・282頁14 「昭四十年」 → 昭和63年版「昭四十年」と修正。


 続いて山田野理夫「遠野の市(ルビまち)の謡(ルビうた)」(284〜296頁)であるが、まず疑問箇所を挙げておく。
・285頁6 「流矢にあたり死傷、死骸を東禅寺に埋葬した」は「死亡」だろう。
・285頁13・287頁4・292頁1・296頁9 出典を(「遠野物語」)とするが「遠野物語拾遺」の方である。文体で分かるが、やはり区別して欲しい。
・290頁14 「平洋」 → 中公文庫版で「平洋」と修正。
・292頁9 「枕返し」 → 昭和63年版で「枕返し」と修正。
・295頁1 前の行からの文が続いているのに何故か行頭が1字下げ → 中公文庫版(字詰めは違うが)は修正。
・295頁3 「技」 → 昭和52年版で「技」と修正。
 さて、次に内容について確認してみたいのだが、まず冒頭部分を引用しておこう(284頁)。

 私たち―羽生和男、宮崎英二、山田の三人は花巻から自動車(振仮名クルマ)を借り受けて遠野の町に入った。北上山地を貫く街道を経て、
 <花巻より十余里の路上には町場(ルビまちば)三か所あり。その他は青き山と原野なり。>(「遠野物語」)
 私たちは遠野市の菊池幹さんの紹介で旅籠「福山荘」に泊った。私たちの通されたのは二階の部屋だが、一か月前、善光寺の尼僧(ルビあまみや)が供十数人とともにこの部屋に泊ったという。そのとき前日から大掃除し、一切の他の客を断ったそうだ。まるで大名行列である。


 こんな書き出しなので、前回紹介した挿入写真に関連する紀行文なのかと考えてしまうが、そうではない。ちなみに羽生和男(1925.6.8〜2009.6.9*3)は奥付に「発行者」として見える人物、宮崎英二も宝文館出版の人で、この人が4頁の「宝文館出版写真部」であろうか。そして、もう1つ『遠野物語』序文からの引用を挟んでその次の段落から、話題が変わる(285頁2行目以下)。

 私は遠野に関する民謡を盛岡できいたことがあった。品のあって悠長な囃子であったと印象に残っている。「遠野囃子」とか「南部囃子」といわれるものだ。九月十四、五日の両日に八幡神社の祭に山車に従う囃子の調子の曲調である。あの時は民謡研究家は武田忠一郎さんと一緒だ。


 武田忠一郎(1892.5.8〜1970.12.10)の回想である。そして、以下は遠野の歴史・風土を遠野の民謡とともに、「武田さん」との会話をも織り交ぜながら紹介するという体裁になっていて、冒頭の3人の行動らしいのは、次の箇所のみである*4

 遠野は凶作に見舞われたものだ。私たちは天明二年大慈寺十九世義山和尚が、凶作で餓死したものを追悼するために、五百体の羅漢を彫ったときき、私たちも*5たずねていった。餓死者たちの霊魂のとどまるにふさわしい山中だ。豊年祝いのにぎやかさは白々しい。(286頁6〜8)

 私たちも中世の面影を残すこの鍋倉城跡をたずねた。城跡へのぼる石段の石柱には遠野の商家、地方政治家の名が彫まれている。それもちいさな歴史である。(290頁1〜2)


 以下296頁9行目まで「遠野の市の謡」の題の通り、民謡を絡めた話題が続くが、最後に話題が変わる。いや、変わろうとする。
 その、最後の段落(296頁10行目)を引いておこう。

 さて、次に私たちは佐々木喜善の息吹(ルビいぶ)きを追うことにする。


 風土と民謡を扱った本題(285頁2〜296頁9)の前振りに当たる、285頁1行目までの1頁分の内容、「私たち」3人の遠野旅行の顛末はどうなったのか、と読者としては当然気に掛かっている訳だが、そこでこの「さて、」で、漸くそっちの話が始まるのかと思いの外、後は、ない。別に書いたのかも知れないが、この本の中にはない。
 しかしこれは、挿入されている写真及び散文詩が、その続きのように読める。確かに、これらの写真と散文詩に「佐々木喜善の息吹き」が感じられるからだ(感性の違いはあろうが)。
 ところが、昭和63年版では、この1行、下に「(了)」とのみあって、あっさり削除されている。(以下続稿)

*1:奥付は「編者」。

*2:日付記入予定。

*3:日本出版クラブHP「出版平和堂」合祀者名簿による。

*4:挿入写真を介して「私たち」の行動と結び付けられそうな部分はもう少しある。

*5:既に「私たちは」とあるのでこの「私たちも」は要らないのではないか。