瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

森鴎外『舞姫』の文庫本(4)

 3月10日付(3)からの続きで「昭和二十九年六月三十日 初版発行/昭和四十二年七月三十日 三十版発行/昭和四十七年五月三十日改版八版発行」の改版八版について述べる。
 144〜147頁「主要参考文献」だが、まず単行本が48種挙がっており、その最後(146頁18行目)は「稲垣達郎 森鴎外(『近代文学鑑賞講座4』昭和三五・一、角川書店)」である。3月8日付(2)に述べた現行版(「平成の諸版」改め)のにある「主要参考文献」(142〜147頁)では、同じ本は23番目、146頁18行目に「稲垣達郎編 森鴎外(昭和三五・一、角川書店、『近代文学鑑賞講座』第四巻)」と見えており、以下146頁3行目まで、全部で54種が挙がる。
 つまり、現行版と改版八版とでは、共通する部分にも相当出入りがあって、初めに家族の回想等が挙がるのは共通する(年代順)が、改版八版では14種だったのが、現行版では10種である。例えば改版八版144頁12行目に「小金井喜美子 鴎外の思ひ出(昭和三一・一、八木書店)」があるが、現行版(昭和61年頃)は岩波文庫版が出る前で入手困難だったせいか、見当たらない(昭和58年に覆刻版が出た小金井喜美子『鴎外の系族』は見える)。
 別に「雑誌特集号」があるが、逝去直後の「大一一・八」に出た『新小説』臨時増刊『三田文学』『心の花』『明星』から「特集森鴎外・作家論と作品論(『解釈と鑑賞』昭三四・八)」までである。
 現行版では「「現代のエスプリ」森鴎外(昭和四三・一)」から「「信州白樺」森鴎外特集号(昭和五六・四)」までが挙がっていた。つまり「主要参考文献」の「雑誌特集号」を見る限りでは、改版八版と現行版とでは、この間(昭和35年2月〜昭和42年12月)が空白になっているように見える*1
 ちなみに現行版では「雑誌特集号」の前に「注釈」(146頁4〜9)として4種挙がっているが、改版八版にこの項目はない。現行版の末尾には(須田喜代次編)とある(147頁3行目)が、改版八版には編者名は入っていない。
 148〜158頁「年譜」は組み方が違うが頁数は同じで、内容も変わらないようである。末尾に、

本年譜は、鴎外稿「自記材料」および岩波新版*2『鴎外全集』著作篇第二四巻所収の「年譜」に拠った。

とある。現行版では1行空けて(稲垣達郎)とあるが、改版八版にはない。
 新潮文庫では「初版」のままでないものには「改版」と附記して、刷数は初版以来の通算を記載しているが、角川文庫では「改版八版」という書き方からして、改版から新たにカウントしているようである。しかし昭和40年代の改版以来のカウントを平成に至るまでそのまま続けているのは奇妙な気がする。昭和30年代にも昭和60年頃にも版は改められているようだし。特に問題だと思うのは現時点での版の内容が、いつの改版に基づくのか、この角川文庫の奥付では全く分からないことだ。少々の手入れを一々表示するのは(私のような人間ならともかく、普通はうるさいだけだから)ともかく、どの時点でのものなのか、は重要な情報だ。それがよく分からない表示法は、どうにかならないものか。

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 昨日は10時過ぎに外出。開店したばかりのスーパーではレジ周辺もごった返し、入口から50人以上の行列が続いていた。朝、防災無線で「今日の計画停電実施」が広報されたから、いよいよ不安を掻き立てられたものと見える。私も昼前に買い物に行ったが、もう嵐の後みたいで、普段の土日の同じ時間帯よりも空いていた。塵紙類、パン類、麺類がないのは相変わらずだが、値上がりしているとか、商品全体が品薄とかいうことはない。菓子類は十分にある。特定の商品のみ、強迫観念にかられて買い占められている。
 昨日の停電中は布団に入って息を潜めていた。ラジオも懐中電灯もないが、2時間で終わると分かっているのだから*3何もしなければ良いだけだ。気温も低くはなく、煎餅布団だけれどもしっかりした寝具があり、そして停電終了後に風呂にも入れたから良いが、被災地は氷点下である。
 余震が怖くて避難を継続しているというのではない。もう帰る場所もなく、いつまで続くか分からないのだから、復興のためにとどまる必要のある人員を除いて、老幼とその付添はもっと安全で長期滞在可能な施設へ移動させるべきではないか。仕分け対象にされた宿泊施設とか。じきに帰れるのならともかく、生存者・行方不明者・遺体捜索、瓦礫の撤去、復興(都市・道路)計画の策定……復興のための準備段階の作業だけでもすぐに終わるとは思えない。仮設住宅も復興のために残る人員の分も確保できていないのではないか。
 asahi.comの「マイタウン 岩手」2011年3月4日付記事「1933年昭和大津波の日 沿岸各地で訓練」を見た。つい1週間前の3月3日に訓練が行われたところであった。1000年に一度の出来事に人間の経験は役に立たないということなのか。神も仏もないのか、と思ってしまうが、神も仏も思い付かれていなかった昔から繰り返されてきた自然現象なのである。石原都知事の天譴説も、自然現象を前にしては人智の及ばないところがある、という意味で反省を求めるというのならまだしも、「我欲」にまみれた日本人への「天罰」などとは論外である。自然はそんな人間の都合で動く訳ではない。その上「スーパー堤防はいりますよ」ではいよいよ訳が分からない。今回の衝撃は「我欲」云々ではなく、人間が制御できる自然現象には限界がある、というところにあるのではないのか。今回、東京近辺は一部の停電と鉄道の停止くらいで済んだが、まともに強震に襲われたらどうなるのか。生存者・行方不明者・遺体捜索、大量の被災者の避難、瓦礫の撤去、……。原発の事態をうまく抑えられたとしても、夏の電力は足りるのか。まぁ電車や公共施設のクーラーかけ過ぎが改善されるのなら歓迎する。ヒートアイランドも解消したりして。少しは。熊谷とか。兵庫県知事の「チャンス」発言(2008年11月11日)は論外だが、東京に大震災が起こらないまでも、ぼちぼち首都機能の分散なども真剣に議論すべき時期に来ているのだろう。
 が、あまり心配していない。今は落ち着いているしかない。起こってしまったら、仕方がないと思うしかない。

*1:単行本の情報も勘案。この間、全く雑誌特集号が出ていなかった可能性もあるが。単行本のこの期間は現行版に含まれている(改版八版に当然含まれているべきなのだが)。

*2:現行版は「書店」。これは昭和46〜50年刊岩波書店第三次『鴎外全集』ではなく、昭和26〜31年刊岩波書店第二次『鴎外全集』で第24巻は昭和29年刊で、確かに昭和35年頃には「新版」だった。初版がどうなっていたのかも確認してみたい。

*3:今日は2時間40分だった。