瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

幽霊の奢り(1)

 東雅夫編『文藝怪談実話』*1所収、宇野信夫(1904〜1991)「六代目の怪談」(211〜215頁)は昭和53年(1978)刊九藝出版『役者と噺家*2を底本として、初出不明とのことですが、六代目尾上菊五郎(1886〜1949)から聞いた、というのですから、いずれ明治から戦前の話なわけですが、3話あるうちの2つめ(212〜214頁)、――旅回りの一座が越後の小さな町で興行中、身体を悪くして寝込んでいた六十を過ぎた役者が死んだ。秋の寒い雨の晩に通夜をしていると、出前持の小僧が人数分の蕎麦を持ってきた。こいつは有難いと食べているうち、誰が頼んだのか、誰にも心当たりがないことに気付く。小僧に聞くと病人みたいなお爺さんだという。そこで役者の一人が死人の顔に掛けてあった手拭いを取って「この人かい」と聞くと「アア、その人ですその人です」

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 この話、今野圓輔編著『日本怪談集―幽霊篇―』*3第十章「親しき幽霊」(257〜290頁)の「一一 そば代払った菊之介」(276〜278頁)に類似しています。
 出典は末尾に(佐賀市昭栄中学校教諭・柴田慶治・毎日新聞・昭和三八年)と示されていますが、本文は「日露戦争がすんで間もないころ祖父から聞いた話ですが、佐賀市材木町一丁目に起こったものだそうです。……」に始まり、「祖父は夏になると、幽霊がおごってくれたソバの話を講談めいた口調で話します。」との段落で終わっています。
 材木町は佐賀城の北東、佐賀市立昭栄中学校は城の西の郊外にあります。
 昭和38年(1963)に中学校教諭をしている人が、日露戦争直後というから明治38年(1905)に話を聞いた、というのはおかしいので、正しくは最後にあるように祖父が「夏になると」未だにしている日露戦争直後の怪談、というのでしょう。別に検証する予定ですが、今野氏は原文を忠実に引用してはいないので、この話ももとになった記事を確認しないといけないのですが、まだ検出しておりません。見付け次第追記します。しかしここのところは「祖父から聞いた話ですが、日露戦争がすんで間もないころ、佐賀市材木町一丁目に起こったものだそうです。……」とすべきなのだろうと思います。
 脇道に逸れましたが、最初の段落の残りを引くと「先代の梅玉一座が福岡県直方の日若座でこけらおとしをやり、九州一円をドサ回りしたことがある。はじめは順調にいったが途中で入りが落ちて座員に給料も払えなくなり、ずらかる者も出はじめた。そのころ下まわりの菊之介が心臓脚気で寝ついたので、彼を土地の興行先へ預けて一座はつぎの興行地へと旅立ってしまった。」とあります。随分具体的です。中村梅玉は当時大阪にあった名跡で、昭和38年当時は不在ですがここは昭和23年に没した三代目(1875〜1948)の先代、二代目(1841*4〜1921)と見当が付けられます*5。登場人物も大阪弁を喋っております。
 次の段落には「ところがそれから芝居の入りがバッタリなくなり、一同は変なことがあればあるものと不思議がったが、ちょうど佐賀へきたときのことである。……」とありますが、ここも「ところが」で受ける文脈ではないと思うのですが、それはともかく、「十三夜の月の明るい晩」、「不入りつづき」で「白け」ている佐賀の材木町の芝居の楽屋に、「近くの橋口屋というソバ屋」から「景気よく盛ソバ一四」が届けられます。誰が寄越したのか分からないながら食べていると、楽屋の入口に菊之介が現れ、お世話になったお礼に「ソバでも召し上がってもらいたいと思うて」と言う。そのとき一人の役者が、菊之介は死んで先日骨を取りに来いと知らせがあったことを思い出す。もう菊之介の姿はない。ちょうどそこに一座の走り使いが菊之介の骨壺をもらって帰って来る。店に問い合わせると、「役者風の色の白い人」の注文で、代金ももらっているとのことだった。……

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 「六代目の怪談」は所謂「御難」に遭ったのではなく、寒い晩に通夜してくれている連中への死者の気遣いでしたが、基本的なパターンは同じです。ただ、「六代目の怪談」のラストは話としては面白いのですが、芝居がかり過ぎておりましょう。越後の晩秋という日時場所も、如何にもお誂え向きの舞台です。
 ところで「近くの橋口屋」は「佐賀市地域文化財データベースサイト さがの歴史・文化お宝帳」のカテゴリー建造物「思案橋」に記述があります。「うどんの橋口屋」なのに、大阪の役者たちに蕎麦という辺りがちょっと引っかかります。佐賀の話が実話だとすれば、これが洗練されて出来上った形が「六代目の怪談」と言えそうだとは思うのですが。

*1:1月12日付に書影を貼付。

*2:未見。

*3:2月8日付2月9日付参照。後日もう少し記事を追加の予定。以下の頁数は現代教養文庫版。中公文庫版は章節から検索されたい。

*4:天保十二年十二月二十八日生、西暦では1842年2月8日だが、12月31日付「年齢と数字」により、天保十二年=1841年として処理しておく。なお、梅玉襲名は明治40年 (1907)10月で当時は三代目(高砂屋福助

*5:2015年12月14日追記直方鉄工協同組合HP「直方鉄工協同組合80年史より〔発行:1981年(昭和56年)3月〕」の「第一章 明治篇/第五節 明治後期の直方鉄工界」の「6. 直方電気株式会社の設立」に「記録によりますと、明治三十一年頃から貝島太助を中心に設立が進められていた日若座劇場が完成し、その柿落(こけらお)とし(初興業)が、大阪の千両役者中村福助一座を招いて行なわれたのが三十二年六月十三日のことでした。この時、太助は、自宅から日若座まで約二百メートルの電線を引き、自家用電力を舞台照明に使って、役者と観客の度肝を抜いたということです。」とあります。――当時の記録では「福助」ですが、回想では「先代の梅玉」となる訳です。明治32年(1899)6月13日とすると日清戦争日露戦争の間のこととなります。