瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

幽霊と妖怪

 地震後休館のまま、一部開館で施設の一部を閉鎖したまま、という図書館もあって、使えなくなってから改めて如何に恵まれた環境にいたか、ということに思いを致しております。――高校の帰りに、往復1時間半かけて市立図書館に歩いて通ったのが(電車を使えばもう少々早く往復できたが、経済的な余裕がないから図書館を使っているので)、東京ではそれだけ移動時間があれば3〜4館ハシゴできるのですから……しかし17時か18時に閉館になっては、それも不可能です。しかし被害がなかったからこそ、この程度の変化を感じるにとどまっている訳なのです。
 今日は計画停電が夕方に3時間あったそうです。帰ってきたら真っ暗でした。街路灯も何もなし。中学の頃、江戸時代以来の土道を、よく歩いたものでした。近く宅地造成で潰されることになっていたので(そして、卒業前になくなりました)、わざとそんなところを歩いたものです。両側が切り通しのようになっていたり、尾根筋だったりしましたが、目を凝らしていると、月のない、暗い夜でも道がなんだかぼおっと白く浮かび上がって見えるのです。今住んでいるのは笹藪も何もない住宅地ですが、道の両側の黒い塊の連なり*1に対して、道が少し白く見えるのが、ふとそんな昔のことを思い出させるのでした。
 昨日、久し振りの怪談関係の旧稿を引っ張り出して、下書き記事などを眺めているうち、2月9日に勢いづいて書いた駄文を持ち出しておこうという気になりました。

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 怖い話なんて怖くない、と言いながら、幽霊話の考証などをしているのだが、好きなのである。それに、幽霊の話は因縁で説明される。因果関係がはっきりしている。その幽霊がいつ、どこで、どのようにして死んだ人の幽霊なのか、割合はっきりしている。そしてなぜ、どういう関係で目撃者の前に現われたのかも、けっこうはっきりしている。だから私のような懐疑主義者が興味を持って調べるにはモッテコイの材料なのだ。
 これに対して、妖怪の話を掘り下げようとしたら、本当に出たなどということはあまり聞かないし、確かめようがない。妖怪に殺されたなんて話は今でもあるが、いつ、誰が、なんて辺りがはっきりしている話は聞いたことがない。妖怪の詳しい話なんて、「何色の紙が欲しいかー」と聞かれて「赤」と答えた(とされる)人みたいに、殺された人が最期にどんな体験をしたのかまで説明したような話ばかりである。いや、私はそういう明らかにおかしいのにみんなが何故か一笑に付さずに語り継いでるような話は大好きなのだが、それは良いとして、――問題は「出た」という話である。私はいくつか具体的な証言を得ているけれども、しかしどれもこれも「出た」止まりで、それも「人間じゃないように見えた(ような気がした)」「誰もいないのに音(声)が聞こえた(ような気がした)」ということなのであって、要するに「出た(ような気がした)」ので、そんなもん錯覚だ、と一笑に付されれば終わってしまうレベルのものばかりなのである。それでもたまにメディアに取り上げられて「口裂け女」「カシマさん」「花子さん」みたいに全国区に広まる妖怪もいて、それは基本的に関係者のところにしか出ない・決まった場所にしか出ない幽霊以上の、爆発力・瞬発力・破壊力があるのだが、そのときに識者によってなされる説明が、どうもその、しっくり来ない。社会学者の社会不安説やら、民俗学者の零落した神々、など、へーそうですか、とは思うのだけれど、それ以上ではない。
 私はどうも民俗学が苦手で、柳田國男の、実はかなり曖昧かつ飛躍したことを、余人の追随を許さぬ挙証能力とソフトな語り口調で述べた文章も、読んでいるうちになんだか騙されているような気がしてしまうし、折口信夫の講義録に「××は△△」と論証なしに決め付けているのを見ると、本当なのかと疑ってしまう。尤も、あれを生の講義ですぱっすぱっと繰り出されたら、その眩いばかりの頓知風関連付け能力の高さに瞠目して「すごい」と讃え崇める念を起こしたかも知れない。が、どうもあれは一種の宗教のような気がしてならない。研究対象の実質を把握するための学問としてではなく、折口学、折口はどんな風に解釈していたか、折口だったら昨今の状況をどのように解釈しただろうか、という、折口を教祖としてその教義に則った宗教のように見える。折口を折口として検証するのは、それはそれで面白いと思うけれども、全てを折口流で説明しようとされると、抵抗を感じる。かつて、先輩で、何かというと「デリダによれば」と言う人がいて、文学について鮮やかに自信満々に語って、それはそれはカッコ良かったのだが、その先輩の異様な説得力・他人には捻じ伏せられないぞというオーラ、そして人を人とも思わぬかのように批判(というか罵倒)していく能力の高さには感心しながらも、どんなエライ人にもどこか(思い込みに基づく)間違いはあるもんだ、という懐疑精神を身につけていた私は、まだ若輩だったから「(前提の)デリダが間違ってたらどうするんだ?」などと疑問を覚えつつそれを表明することはせずに、とにかくその先輩のキャラに感心して拝聴していた。と同時に、ある存在に絶対帰依して理屈を展開する人々の強さというものを感じた。だから、私はスポーツ選手などが宗教に帰依するのは別に悪いと思っていない。スポーツ以外のことであれこれと煩わされるのなら、宗教か何かにすぱっと説明を付けてもらった方が、よっぽど本業に集中出来るだろう。私には日常茶飯事を廃してまで成し遂げねばならぬような大望とてないし、細々とした疑わしいものに引っ掛かっては、調べて突っ込みを入れていく、ということに悦びを見出しているので、そんな絶対帰依すべき説明などに私は惹かれないというまでなのである。
 余談だらけだが、民俗学にはどうも、そういう天才的なところがあって、私のような瑣事に躓く俗人を寄せ付けないようなところがある。だから、私は民俗の資料集を読むのは好きなのだが、その資料を解釈した論文になると忽ち付いていけなくなる。しかしそれもこれも、霊感があるとかないとかいうのと同じで、たぶん、感性の違いなのだから今更どうしようとも思わない。

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 本当は折口氏の頓知風駄洒落(?)の実例を集めてからアップしようと思っていたのですが、その余裕がないし、実はそんなに興味もないのでこのまま出してしまいます。柳田氏についても、私が検証する必要もないでしょうが、何か機会があったら、触れる機会を持ちたいと思います。

*1:家並み。