瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

新小説「怪談百物語」(02)

 昨日はざっとしたところまでで止めました。怪談の会らしいからしくないか、寄稿している面々の文体や、記事の傾向から見当を付けてみた訳です。私は会はなかったろう、という見当なのですが、ここまでではただの見当です。
 そもそも、不特定多数に文字にして読ませるものですから、談話そのままでは意味が通じない場合は当然手が入るでしょう。編集サイドで済まさせる人もいれば、自分で手を入れる人もいるでしょう。そうなるともとは談話であっても掲載されるまでに「ナマ」の口吻が全く消えてしまうことにもなりましょう(逆に談話でないのに談話調で原稿を書くことも出来ましょうが)。
 或いは速記に不満足で一から書き直したり、全く違う話に差し替えてしまうこともありましょう。ですから、ざっと読んで談話っぽくないから会で披露されなかったことにはなりません。内容が怪談じゃないから怪談の会に参加しなかったことにもなりません。傾向や文体では、会の存否も含めて、判断できない訳です。
 そうすると、やはり本文の細かいところを見て、手がかりを拾い上げて行くよりありません。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 この「怪談百物語」が一堂に会してのものではなかったことは、談話体の、沼田一雅(1873〜1954)と岩村透(1870〜1917)の話を読めば判明する。「怪談百物語」には沼田氏・岩村氏の順に掲載されているが、聴取の順序は岩村氏が先であったと判断される。
 沼田氏の「白い光と上野の鐘」(『百物語怪談会』305〜310頁)は、冒頭に

 私は『白い光り』と『上野の鐘』の二題に就いて、ざっと荒筋丈けをお話しようと思う、……

と述べているように、2つの関連しない話が並べてあるが、1つ目が終わって、2つ目に入るところ、

 もう一つの『上野の鐘』は、岩村さんのお話しの『学士会院*1の鐘』と好一対とも云うべきで、……

とある(308頁)。これは明らかに岩村氏の話を受けての語りであり、掲載順が前後したのは編集ミスと云うべきであろう。
 さて、同じ場所で、沼田氏よりも先に話された、と判断される岩村氏の「不吉の音と学士会院の鐘」(311〜315頁)であるが、その冒頭はさらに重要な手掛かりを与えている(振仮名は括弧に入れて該当する語の後に挿入した)。

 昼も見えたそうだね。渋谷の美術村は、昼は空虚(からっぽ)だが、夜になるとこうやってみんな暖炉(ストーブ)物語を始めているようなわけだ。其処へ目星を打って来たとは振(ふる)っているね。考えてみれば暢気な話さ。怪談の目星を打たれる我々も我々であるが、部署を定めて東奔西走も得難いね。生憎持合せが無いとだけでは美術村の体面に関わる。一つ始めよう。
 しかし前から下調(したしらべ)をしておくような暇(いとま)が無かったのだから、何事もその意(つもり)で聞いて貰わなければならない。あるには有る。例えば……


 この談話体の記録によって、単に岩村氏への取材に限らぬ、この「怪談百物語」の企画それ自体の背景が透けて見えるようである。
 まず、岩村氏への取材が「渋谷の美術村」に岩村氏らを訪ねてのもので、「昼」は「みんな」不在で空振りに終わったことが判明する。
 それはストーブを囲むような時期で、12月号に掲載された「怪談百物語」の取材が、その直前に、記者たちの「部署を定めて」の「東奔西走」により行われていたことが察せられる。
 つまり、あまり時間的に余裕のない状態で企画が立ち上げられ、急遽記者たちが心当りの「怪談の目星」を各所に訪ねて回っている様子が想像されるのである。
 「下調をしておくような暇が無」いと言うのだから、予告もなしに来ている。「昼」にいきなり来て、「夜」にまた来ている。そして「生憎持合せが無いとだけは」との言い方からしても、記者に後日改めて出直して来る余裕がなかったことが察せられる。沼田氏が「ざっと荒筋丈けをお話しよう」と断っているのも、締切が切迫していたためであろう。
 岩村氏は、談話を取材に来た「新小説」の記者に、こうして「渋谷の美術村」の「我々」を代表して挨拶しているので、やはりこれは沼田氏よりも前に語られ、沼田氏の後ではなく前に掲載されるべきものであったことの証左となろう。沼田氏の後に、こんな挨拶はしない。
 この掲載順が前後したのも、編集サイドの余裕の無さの現れ、というのは少々穿ち過ぎであろうか。(以下続稿)

*1:振仮名「ラシステキユー」。以下略。