瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

柳田國男『遠野物語』の文庫本(04)

 私は吉本隆明の本を全く読んでいない。大学院なぞに進んで、細かい異同の総浚えなどをやらされているうちに、それが苦痛でなくなった、というか、性分に合っていたような気がしてきたような按配で、研究者と名乗る人々の中でも細かいところをないがしろにするような人、荒っぽい議論を展開する人には付いていけない。必要があって読まざるを得なくなることがあるが、書込み用のメモ用紙が何枚も挟み込まれ、殆ど収拾が付かなくなる。
 ブログの開設には、そういうのを吐き出してしまおう、という目論見があったのだが、今のところ溜め込む一方だ。かつ、読みながらのメモはそのまま他人が読めるようなものではない。手許にない資料を見て是非を確認するという作業も必要だ。そうすると、いよいよ溜まる一方で、もう死ぬまでにメモの山を片付けられないのではないか、と思えてくる。実際、何の本のメモなんだかよく分からないのもある。

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 それで、新潮文庫4885『遠野物語に載る吉本氏の「『遠野物語』の意味」だが、正直、今回のタイトルを「「『遠野物語』の意味」の無意味(1)」にしたいくらい、訳が分からなかった。文庫本で32頁(101〜132頁)ながら読み進めるのに本当に苦労した。文章が難しい訳ではない。一応、分かる。しかし、展開が恣意的過ぎて、付いていけない。その意味では、柳田國男の文章の方が巧妙である。
 まず、なんで新潮文庫がこの吉本氏の文章を収録したのか、その意図するところが読みにくい。「解説」は旧版以来の山本氏の解説(4月6日付(02)参照)がある。これに、さらに追加しているのだ。山本氏の「解説」だけで十分だろう。
 どうも、「拾遺」を省いたのは、この吉本氏の文章を収めるためだったように、見える。『遠野物語』本文(序や題目を除いた119話の本文)が、旧版では55頁だったのが新版76頁に増加している。しかしこれなどは異様に間延びさせて組んだためで、10年以上後に改版した『新版 遠野物語 付・遠野物語拾遺(角川文庫13359/角川ソフィア文庫102)』(昭和三十年十月五日初版発行・平成十六年五月二十五日新版初版発行・平成十八年一月十五日新版四版発行・定価476円・角川書店・268頁)は文字を大きくして58頁に収めている。
 新潮文庫改版の目玉は、どうやら吉本氏の文章を収録すること以外になさそうなのだが、旧版のラインナップのまま、さらに30頁増やすことに何らかの故障が発生した。もちろん、組み方も旧版のように文字を詰める訳には行かないので、最低でも新版に於ける山本氏「解説」と同じように、本文を組まねばならない(吉本氏の文章も同じ組み方)。そうするとさらに大幅な頁増になる。そこで『定本柳田國男集』などが省いている「拾遺」を省くことを思い付いた、のではないか。これにより巻末の「索引」も旧版で14頁(215〜228頁)あったのが新版では6頁(139〜144頁)で済んでいる。ところが「拾遺」など再版本関連箇所を省いてみると、今度は随分薄っぺらくなってしまう。そこで、本文をだらしなく間延びさせて組んで、十数頁分増やして間に合わせたのだろう、――というのが、私の邪推である。
 大体、この吉本氏の文章、文庫版『遠野物語』に附載の文章でありながら、『遠野物語』の話を、いくつもまるまる引用している。(104頁)(104〜105頁)(106〜107頁)一一(108〜109頁)一四(110頁)九七(116〜117頁)二四二五(120頁)一一六(121〜122頁、一部省略)六八(123頁)五〇(126頁)五一(126〜127頁)五二(127頁)で、110行分(119話中13話)ある。1頁18行で組まれているから、6頁余、引用の前後が1行ずつ空けてあるから30頁余の文章の実に1/5が『遠野物語』の引用なのである。それも、特に細工もせずに引用しているのだから、こんなものは話の番号だけ挙げて、(15頁)とか(16頁)と指示すれば良い。――すなわち、これだけを取り出しても構わないように出来上がっているのだ。と云うよりか、この新潮文庫4885『遠野物語自体、吉本氏の文章がメインで、吉本氏の意見を聞くために『遠野物語』が添えてある、そんな作りなのである。(以下続稿)