瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

柳田國男『遠野物語』の文庫本(05)

 『共同幻想論』は、現代思想に疎い私でも名前だけは知っている。

共同幻想論 (1968年)

共同幻想論 (1968年)

改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

 たぶん「『遠野物語』の意味」とも重なっているのだろうから、よく批判するためには読んで置くべきなのだろうけれども、苦行になると分かっているので読まない。それに『共同幻想論』の批判ならもっと勉強している人がきちんとやっているだろう。知らないけど。だから、身の丈に合わぬことに挑むのは止して、当ブログでは、飽くまでも文庫版の『遠野物語』にこの文章を附載(というか殆ど目玉商品の扱いに)することについて、問題にしたい。
 或いは『共同幻想論』を見たらもう少し分かりやすく書いてあったり、補足になるようなことが記述されているのかも知れないが、この文庫版しか読まない人間にとっては、これが全てである。だからそのつもりで(無知を振りかざして)「『遠野物語』の意味」(新潮文庫新版101〜132頁)に、突っ込んでみたい。
 そこで、今更ながらだが、記事のタイトルを「柳田國男遠野物語』」から「柳田國男遠野物語』の文庫本」に改めることにした。これまでの記事(01〜04)についても改題した。

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 さて、まず冒頭で、鴎外や漱石を持ち出している。吉本氏は『遠野物語』を文学作品として、柳田國男の文学作品として、そのオリジナリティを評価するつもりらしい。

 文学的には柳田国男は、花袋や独歩など自然主義系統の詩人、作家に属していたわけだが、『遠野物語』はこの系統とはむしろ類縁はないといっていい。むしろ独歩と鏡花を結びつける線を空想すると少し親近さが感じられる。……

などと、言わずもがなの確認をしている(101頁)。どうも、この辺りに根本的なズレがあって、話がおかしくなっている(ように私などには見える)。
 『遠野物語』を文学作品としても評価すべきとの意見の提示は、末尾に(『文学界』一九三七年七月号)と初出が示され、「一九四三年一月」付の「付記」がある*1岩波文庫版の『遠野物語・山の人生(岩波文庫33-138-1)』(1976年4月16日第1刷発行・1991年3月15日第23刷発行・定価447円・岩波書店・330頁)に附載されている桑原武夫「『遠野物語』から」(305〜316頁)が早いものらしい。そのことは続いて収録されている「一九七六年三月」付の桑原武夫「解説」(317〜330頁)の初めに、桑原氏自身が説明している。
 さて、桑原氏の意見については改めて確認することにしたいが、「『遠野物語』はまず何よりも、一個の優れた文学書である」と述べてはいるが、桑原氏の眼目は柳田氏の学問が「材料への共感」に満ちていること――「学問と著者との親密さ」を称揚するところにあって、『遠野物語』はその学問の「優れた記録」であって、「簡古な文語体をして内容と完全に合致せしめ、一つ一つの話を素朴でしかも気品の高い短章としたこと」で、「門外の者にもうったえてくる感動」を持つ「文学書」たらしめたことに、柳田氏の「卓見」と文学者としての「手腕」を認めるといった按配なのである。
 これに対して、吉本氏の「『遠野物語』の意味」では、柳田氏の意志と感性が『遠野物語』を形作った、という、文学作品としての評価が、全面に押し出されている、ように見える。そして、それ以外の側面は、随分希薄になっているように、感じられる。(以下続稿)

*1:この「付記」は『事実と創作』(昭和18年創元社)に再録した際に附されたのだろうが未確認。