瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

柳田國男『遠野物語』の文庫本(07)

 前回、これから「個々の疑問点の突っ込みに、移る」と書いたけれども、冒頭にいろいろと作家の名前を引き合いに出しているのが、どうも文学作品として『遠野物語』を捉えすぎじゃないのか、ということで脇道に逸れたので、泥縄式にやっていると自分がどこにいるんだか分からなくなる。4月7日付(03)から4月19日付(04)まで暫く間が空いたのは、実は「『遠野物語』の意味」を斜め読みしかしていなかったので、4月18日にきっちり読んだのである。きっちり読まなくてもぱらぱらと読んで気付いた突っ込み所のみを、ピンポイントで指摘して行くことは可能だと思うのだが、読んだ。
 間違いの指摘だけなら、全部読む必要はないと思う。ただ、内容に切り込む場合は、その文章だけでも読んで置かないといけない。ただ、そこによく分からん箇所があったとして、それ以上(何か別の本を)読む必要が読者の側にあるとは思わない。分からんように書く方と、理解する力のない読者と、どっちが悪いのか、という問題だが、「『遠野物語』の意味」の場合、別に何か読めという指示もされていないので、これだけで論じても良いだろう。それに、「『遠野物語』の意味」の不可解さは私の頭の問題だけではないと思うのだ。

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 4月20日付(05)に引用した、段落の後半(101〜102頁)を抜いてみる。

……。『遠野物語』本位にみれば同時代の文学から屹立していたといっていい。柳田国男自身をこの『物語』の作者にみたてれば『今昔物語』や『宇治拾遺物語』などの古典伝承物語のイメージが頭にあって、どこかでそれにあやかりたいというのが、おもな関心だったと思える。


 それなら最初から『遠野物語』本位に見ればいいので、冒頭に夏目漱石三四郎森鴎外『青年』志賀直哉『網走まで』泉鏡花『歌行燈』谷崎潤一郎『刺青』徳田秋声『足迹』を挙げて明治43年(1910)の文学を概観して見せたのは何だったのか、と思えて来る。背景として、こういう説明があっても、悪くない。しかし、小説だけを背景として挙げるのは、かなり偏った見方だと言わざるを得ない。その上で、いきなり「古典伝承物語」に持って行く。それなら東雅夫のように「怪談の時代」を背景として指摘すべきだろう。

遠野物語と怪談の時代 (角川選書)

遠野物語と怪談の時代 (角川選書)

 小説と比較したら、明治43年の小説だけでなく、古典の作り物語と比較したって屹立しているだろう。吉本氏は説話という言葉を使っていないが、説話と比較すれば、『今昔物語集*1などの「古典伝承物語」だけでなく、明治43年当時の怪異説話とだって類似しているはずだ。柳田氏は序文で、こうした「目前の出来事」が、遠野にはもっとあるはずだ、と言い、国内の山村にはまた無数の同様の伝説があるだろう、と言っているではないか。近代の説話は文学的に問題にされていないから、吉本氏の発想に上らなかったのだろう、それでいきなり、『今昔物語集』に飛躍してしまう。『今昔物語』は柳田氏も序文で引き合いに出していたから、吉本氏が持ち出したのも故なしとしない。しかし、明治43年現在と比較するのであれば、同じ説話のジャンルが持ち出されるべきで、小説と比較したところで似てないのは当り前じゃないか。なんだか恣意的に『遠野物語』を自分の見方に引き寄せる、詐術のように、おもえる。(以下続稿)

*1:柳田氏・吉本氏は当時の慣用で『今昔物語』と呼んでいるのでその通りにしたが、それ以外のところでは『今昔物語集』とする。