瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

Henry Schliemann “La Chine et le Japon au temps présent”(09)

 4月4日付(05)で触れた硫黄島について、当時の外国人の記述を拾ってみたので、以下ぼちぼち紹介して行くことにする。
 まず、ロバート・フォーチュン『江戸と北京』から(5月3日付参照)。第二章、三宅馨訳では「貿易港としての評価」という章題と副題「横浜見物」が附されている(廣川版23〜38頁、講談社学術文庫版43〜57頁)。
 1860年(万延元年)10月19日の明け方、フォーチュンの乗った帆船マーモラ号は長崎を出港、神奈川港に向かった。北に向かって関門海峡から瀬戸内海に入るものと、南に向かい大隅海峡を通って太平洋に出るものの2つのルートがあるが、「安全で、より早く目的地に到着できる」という理由で「帆船は通例、後者の航路を選ぶ」。以下はその航海の始めの部分である(廣川版24〜25頁、講談社学術文庫版43〜44頁)。

大隅海峡 幸い長崎を出てから、海峡を過ぎるまでは順風に恵まれた。海峡の手前に、海員達が「審判*1の岩」と呼んでいる幾つかの小島がある。それらは海面にわずか数フィートしか現われていないので、確かにその近辺は危険で、闇夜や嵐の時は、実にいやな航路で知られている。
 やがて東の方へ岬の突き出た九州本土が、左手に見えて来た。つづいて左側に標高二三四五フィートという、小形の富士山のような、円錐形の開聞岳の前を通り過ぎた。この山は、この航路を通る船員にとって恰好*2の目標になっている。
 開聞岳と岬の間を、三〇―四〇マイル入り込んだ深い湾の奥に、薩摩侯の本拠として重要な鹿児島の城下町がある。
 海峡の南側に幾つかの大きな島が見えた。そのうちの一つは硫黄島という活火山で、噴煙や炎が、他の火山のように山頂から噴き出さずに、山の中腹のいたる所から絶え間なく噴火して、全山が燃えているので、夜の眺めは実に奇観を呈した。


 位置関係を示すために少し前から引いた。原文では「審判の岩“Retribution Rocks”」の他にも、岬(佐多岬)“Cape Chichakoff”、開聞岳“Horner Peak”に当時の西洋人による呼称(のみ)が記載されている(日本名の記載はない)が、邦訳本では省略されている*3。参考までに硫黄島関係の記述の原文を示して置こう。(以下続稿)

On the south side of the strait we observed several large islands, one of which is named Iwo-sima, or Sulphur Island. This is an active volcano, and smoke and flames are continually rising, not from its summit in the usual way, but from many parts of its sides. The whole mountain seems on fire, and has a very curious appearance when seen during the night.

*1:ルビ「さばき」。

*2:講談社学術文庫版ルビ「かつこう」。

*3:大隅海峡」は「Van Dieman's Strait」。「C.Chichakoff」とともに「MAP OF JAPAN and NORTH CHINA」にも記載されている。