瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

柳田國男『遠野物語』の文庫本(10)

 昨日の分、体験譚という語の使用につき混乱があったので修正して置いた。

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 吉本氏は「記述する人つまり作者と、体験した人とが途中から一緒になってしまうような文体」を特別視しているのだが、体験譚を話したり記述したりする場合、むしろそれが普通の行き方だし、『今昔物語集』がそういう文体を採っていないのは理由のあることだ、ということを述べて置いた。
 吉本氏は、それは「記述者があたかも自分が体験しているようなところへ身を乗り出している」からで、「記述者自体がそのことに関心が深」く、「体験者に乗りうつって一緒になってしまったからだ」とする。私は体験譚が好きでないので突き放したような話し方しか出来ないが、稲川氏などは確かに「一緒になって」いるように、思える。
 しかし、「もう一ついえることは」として「この種の体験譚」は「たとえば山のなかで猟師さんが体験したというような話でも、必ずいまのことばでいえば入眠幻覚、つまり夢か現かわからない状態の体験で、里の物語でもないし、山の物語でもなく、里の人と山の人とが一緒にどこかで遭遇しなければ、とてもこの文体はうまれないといった記述の仕方」だとするのは如何なものか。例として「『遠野物語』の三」を引用するのだが、確かには「入眠幻覚」なのであろう。しかし、吉本氏が「三十一から三十三」あるとする体験譚は、全てこのような按配ではないだろうと思う。それなのにの性質を、体験譚全体に拡大解釈しているような気がしてしまうのだ。しかし検討しようにも吉本氏が体験譚の細目を示していないので、一々を「入眠幻覚」なのかどうか、俄に検討出来ない。吉本氏は続いても「その次の四もそうだ」として引用するのだが、こっちは私には「入眠幻覚」だとは思われない。感じ方の違いと言えばそれまでだが、そういう微妙な線引きである以上、細目を是非ともこの文中に示して置くべきだったと思う。本文に出ている話を丸々再録するくらいなら。
 さて、吉本氏はの2話を引いて「佐々木嘉兵衛さんとか吉兵衛さんの体験は、記述している柳田国男自体が、体験したみたいに書かれていることに気づく」とする。「一緒になって」いるという訳だが、ここからまた、訳の分からないことを言い始める。
 は「山男なるべしと云へり」で結ばれているのだが、吉本氏はこれを「昔話風に「〜ということだ」という言い方をして終わらせている」と言い出す。しかし、「なるべしと云へり」は「ならむと云へり」とは違う。私などは学校文法程度の知識しかないから、無批判に学校文法で話を進めるが、推量の助動詞はたくさんあって、ニュアンスが違い、時代によっても違ってくる訳だが、しかし「なるべしと云へり」を「〜ということだ」と云うのはいくら何でも酷い。
 「と云へり」は「〜ということだ」ではない。「り」は、「咲き+あり」→「咲けり」という風に、補助動詞として使われた「あり」(動詞だから連用形に接続)が、前の活用語尾と結合して、命令形(或いはサ行変格活用の未然形・四段活用の已然形とも)に接続する助動詞「り」になったという(だから「あり」の活用語尾と同じく「らりりるれれ」と活用する)。従って、存続「と云っている」か完了「と云っていた」という訳になるはずである。最後だけいきなり「〜ということだ」のような「昔話」になってしまうなんて方が奇妙な解釈ではないか。「なるべし」は断定「なり」+推量「べし」だが、「べし」は適当とか当然・命令などの意味にも取れるように、単に「〜だろう」という推量ではなく「きっと〜だろう」或いは「〜に違いない」という確度の高い推量なのだ。(以下続稿)