昨日の文は投稿後見直す余裕がなかったので今日になって冷や汗を掻いた。翌日の記事までに修正を加える旨、断ってあるし、論旨に変更を来すような修正はないので、先刻直して置いた。
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だから「山男なるべしと云へり」は「山男に違いないと言っていた」ということなのであり、「昔話風に」ぼやかした表現なのではない。「山男ならむと云へり」或いは「山男なンめりと云へり」ならば「山男なのだろう〜」と弱気で曖昧になるが「べし」は確信のある推量なのだ。
それなのに吉本氏は、この「山男なるべしと云へり」について、こんなことを言う。
……昔話の「こういう話があったよ」というような「なるべしと云へり」という意味ではなくて、そのことが夢か現かわからないところで体験したものだからあまり確信できない、それで「云へり」ということばを使った、そういう意味の「云へり」だということがわかる。けっして『今昔物語』のように、昔こういう人がいて、こういうことがあったんだよ、という意味ではない。……
「確信できない」から「云へり」を使った、というのは、正直訳が分からない。確信の度合いについて云々するとすれば「なるべし」の方だろう。この書き方は、確証がないから「山男なり」と言い切らないだけで、「なるべし」なら確信はしていると思うのだが、とにかく吉本氏の読み方はフィーリング任せで、随分恣意的なのである。
尤も、この「山男なるべしと云へり」については問題があって、石井正己『遠野物語の世界』(5月7日付に書影貼付)40〜41頁には、次のように指摘されている。
……。末尾の「山男なるべしと云へり」は草稿本にはなく、これも柳田による加筆であった。「山々の奥には山人住めり」という認識に導かれた推定だが、「山男」が柳田の用語だったことは注意される。
すなわち、この一文は草稿本(初稿本)にはなく、柳田氏が自らの「山人」への興味から、清書本の段階で挿入したという推定を石井氏はしているのだが*1、実際には「山男なるべしと云へり」と体験者もしくは話者の佐々木氏が言っていなかったとしても『遠野物語』では、話者(≒体験者)が「山男なるべしと云へり」と言ったことになっているから、この際、解釈には影響を及ぼさない。(以下続稿)