瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

明治期の学校の怪談(3)

 石井氏は、昨日少し注意して置いたように、この小学校にザシキワラシが出たという話の紹介を「実は、」で書き始めている。前の段落まで動物に関する怪異な噂について述べていたのがいきなり「実は、」と来るので、一瞬何が「実は、」なのだか分からず少々面食らうが、節題と絡めることにより、この「実は、」は「学校の怪談」の誕生」したのも遠野なのだ、という含みのある「実は、」なのだということがわかる。
 ここで石井氏の意見(156頁)を確認して置こう。まず、その前半部分から。

……。石が降ったり、猫が物言ったりする様子を見に行ったように、人々はザシキワラシを見物に行ったのです。
 こうしたザシキワラシは、学校という公共の場所に現れていて、旧家の富貴自在をつかさどる性格は喪失しています。これはもう「学校の怪談」と呼んでいいものでしょう。しかも、前者は明治二九、三〇年(一八九六、七)ですが、後者の明治四三年七月は『遠野物語』が発刊された翌月です。『遠野物語』の「目前の出来事」「現在の事実」は現在進行形であったことがわかります(石井正己『民俗学と現代』)。

 『民俗学と現代』は読んでいないので、或いはここは『民俗学と現代』の内容をダイジェストするに際して舌足らずな表現になってしまった箇所なのかも知れないが、この本しか読まない読者もいるはずだから、読まずに突っ込んで置く。
 「石が降ったり、猫が」云々はこの節の前半「石を降らす狐」で扱った「江戸の怪談を変形した都市伝説」(155頁)を指している。「ザシキワラシ」もこれと並置して、伝統的な材料が現代の都市伝説として再生した例として、扱っている訳である。
 問題は、石井氏の「学校の怪談」の定義である。――学校を舞台として起こったり、校外でも学校行事(修学旅行・遠足・林間学校・臨海教室等)に絡んで発生した怪談が「学校の怪談」なのだろう*1と思う。従って「富貴自在をつかさどる性格」があろうがなかろう(出没が噂された小学校が栄えたかどうか、佐々木氏は記述していないが)が、このザシキワラシの話は「これはもう」どころでなく、初めから紛れもない「学校の怪談」である。かつ、こういった「現代伝説」が「現在進行形」で生み出され続けているのは、別に100年前の遠野に限った話でなし、100年前のどこか別の地方でもそうだったろうし、100年後の現在でも日本全国で(世界中で)進行中だろう。(以下続稿)

*1:学校の怪談」の定義については、常光氏にも少々問題があって、学校で語られている(生徒が知っている)怪談、の意味に使っている場面が目に付くのだが、それは拡大解釈であろう。この辺りの問題については、いずれ講談社KK文庫『学校の怪談』について長々と突っ込みを入れつつ確認する予定。