続くこの章の最後の段落で、石井氏はこんなことを述べている。
こうした「学校の怪談」が日本の中でもとりわけ早く遠野で生まれたのは、偶然ではなかったと思われます。豊かな伝承を育んできた一万石の城下町に学校が建てられれば、そこを舞台に新しい話が生まれることは不思議なことではありません。伝統的なザシキワラシが学校という近代的な施設に現れるのは、これまで述べてきたような、新しい話が生まれる仕組みに実によく則っているように思われます。
最後の一文は、常光氏も指摘していることだし、私も高校時代に、当時刊行された松谷みよ子『学校(現代民話考第II期2)』と岩波文庫『江戸怪談集』とを読んで、教えられずとも気付かされたことで、まぁ常識である*1。この間、ちらと図書館で見かけた、『学校の怪談大事典』にも、「学校の怪談」に類似した、近世怪談の例が添えてあったと思う。
- 作者: 日本民話の会学校の怪談編集委員会,前嶋昭人
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「大正初年に佐々木氏が学校に現れたザシキワラシを記録したという事実」から指摘出来るのは、明治末〜大正初年の「遠野」では「学校の怪談」が記録されるための条件が整っていた、だから記録された、ということだろう。すなわち、帰郷していよいよ民俗採集に軸足を移そうとしていた佐々木氏の存在が第一、そして学校に出没したのがザシキワラシだったのが第二。――ただ幽霊が出た、というだけなら記録されなかっただろう。事実、当初ザシキワラシが想起されず「幽霊」と言われていたらしい「遠野の小学校」の話は、「土淵村の小学校」のザシキワラシ騒ぎがあって初めてザシキワラシと思い合わされたことになっている*2。
他方、他の土地には佐々木氏のような人材がおらず、かつザシキワラシのような報告の必要を感ぜしめるような神だか妖怪だかも出没しなかった。だから記録されなかっただけのことだ。「偶然」好条件が重なったことで、遠野ではかなり「
東京はまさに、石井氏が動物絡みの怪談について引き合いに出していた、「江戸の怪談」を育んできた土地である。「学校」の数(密度)も地方よりは遙かに多(高)かった訳だから、当然「新しい話」が生まれていたことであろう。しかしながら、明治期では固有の学校の・特定の事件の因縁を語る、オリジナルらしき話柄を蓄積させるには、まだ歴史が足りなかった。そもそも学校の怪談というものの大半は、直木三十五が指摘する芝居関係の怪談と同様、単純で藝がない。「出た」というだけの話*3か、さもなければ伝統的な怪談(江戸の怪談)の焼き直しである。しかし、そんな話なら早くに発生していたであろう。しかし、民俗学的な評価などなかった時代に、こんな話が記録する程のことだったのか。――その意味からも、「讀賣新聞」の明治11年(1878)の幽霊騒ぎの記事、これこそ単なる幽霊の噂というだけなら記録されなかったはずの「偶然」の記録として、貴重である。(以下続稿)