従って、岡田章雄訳『エルギン卿遣日使節録(新異国叢書9)』(昭和43年11月10日初版発行・定価2600円・雄松堂書店・前付14+298+索引13頁)*1の62頁の訳注〔開聞岳と桜島〕は〔開聞岳と硫黄島〕と訂正すべきであり、「索引」件名索引の5頁「硫黄島 59」は「硫黄島 59,62」に、そして7頁「桜島 62」は削除すべきである。
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オイレンブルク伯爵Friedrich Albrecht Graf zu Eulenburg(1815.6.29〜1881.6.2)を代表とするプロイセン王国の使節団の訪日記録は『オイレンブルク日本遠征記』として、上智大学助教授(当時)中井晶夫*2(1927生)の翻訳で新異国叢書に収録されている。
・上(新異国叢書12・昭和44年1月10日初版発行© 定価2600円・雄松堂書店・口絵+前付24+409+索引13頁)*3
『上』の「凡例」によると(前付18頁)、原書名は『公式資料によるプロイセンの東アジア遠征』Die preussische nach Ostasien, nach amtkichen Quellen, Bde, Berlin 1864 で、全訳ではなく「日本に関する部分を訳出したものである」。すなわち「原著の「旅行記」の第二章から第十二章までを第一章―第十一章とし(ただし第一、第二、第七、第十、第十一の各章は抄訳)、第一章から第六章を上巻、第七章から第十一章を下巻にまとめた」とある。
硫黄島は『下』の第十章「アルコーナ号とテーティス号の横浜から長崎への航海、長崎での滞在/―― 一八六一年一月三十一日から二月二十三日――」、原書では第11章のはずだが、日普修好通商条約を締結して、横浜から帰途長崎に向かう途中、大隅海峡を通過する場面(103〜104頁)に見えている。1861年2月11日で、前日(10日)大隅海峡に達し、種子島 Tanegasima を目視していた。〔 〕の訳注は本文中から省いて注に配した。
十一日の朝、われわれはまだ大隅海峡にあった。右にはチチャコフ岬 Tschitschakoff ―― 佐多岬 Satanomi-Saki――、左には森に覆われた種子島があり、続いて高い火山のモトリヤマ Motoriyama*5がある屋久島 Yakunosima が現われたが、この山の頂上には雲が横たわっていた。われわれの南には、硫黄の島である硫黄島 Iwosima があった。これはストロンボリ島 Stromboli*6に似た円錐形の激しい活火山で、海から孤立して鋭くそそり立っていた。その標高は二千フィート以上に達するものだった。銀白色の蒸気が、噴火口や脇にある多くの割れ目から厚い雲となって渦巻いていた。われわれの多くの仲間はそこに上陸したい希望にかられた。しかし司令官は、航海を中断するこの願いを聞きいれなかった。彼の態度が正しいことは午後になって証明された。われわれは、九州の美しい海岸にぴったり沿って蒸気機関で進んだ。海岸の一部は森林に覆われた勾配であり、またある所は樹木のない切り立った断崖で、すばらしい弧状を描いて海に接していた。佐多岬は断崖をなし、そこを通して、最近かのイギリスの武力行使の戦場となった鹿児島湾が見渡せるのである。その向い側には、ホルナー岬 Pic Horner つまり開聞岬 Cap kaïmon がある。これは、火山によってつくられた高い先の尖った円錐形の山である。この二つの岬の間に、美しい山容の連なりに囲まれた魅力的な湾が開かれているのであった。その一番奥まった所に険しい岩の島があり、これが薩摩の首都の景観の特色となっていた。
この後暴風雨に巻き込まれ、司令官の正しさが「証明され」ることになるのだが、ともかくこの記述からも、『エルギン卿遣日使節録』の訳注を〔開聞岳と硫黄島〕と訂正すべきことは確かである。
「鹿児島湾……の一番奥まった所に」ある「険しい岩の島」は桜島であろう。「イギリスの武力行使」は生麦事件(文久二年八月二十一日 1862年9月14日)に起因する薩英戦争(文久三年七月 1863年8月)で、プロイセンの使節団がここを通過した後の事件である。この薩英戦争については「原著第二巻の付録……Ⅱの「最近の諸事件」」(『上』凡例)に詳述されており、『下』150〜307頁に「後記/―― 一八六一年以来の日本における政治情勢と外国貿易の発展――」として訳出されている。『下』の「索引」件名索引の9頁に「桜島 222,227〜229」とあるが、ここに「104,」を加えるべきかと思う。