瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

柳田國男『妖怪談義』(1)

 あまり妖怪には興味がないながらも、『妖怪談義』は教養として読んだ。民俗学的な発想に付いていけない人間なので、正直あまり面白くない本だな、と思ったが、1題1題が短いので、1日1題でだらだらと、平成10年(1998)11月25日から12月26日まで1ヶ月かけて読んだ。
 内容は、体系立った妖怪論ではなくて、これまでに書いた妖怪についての短文――「談義」の寄せ集めである。最近、借りてきてぱらぱらめくっているが、かつて感じたような、詰まらない印象は受けない。詰まらなく感じたのは、頭から順に読んでいったからだろう。――中学の頃までは昔話集など、目に付いた話から読んで、読んだ分は題の上に鉛筆で○印を書いて置く習慣があったらしいことを、先日書棚の奥から引っ張り出した柳田國男『日本の昔話(新潮文庫3043)』(昭和五十八年六月二十五日発行・定価220円・新潮社・188頁)をめくっていて思い出した。けれどもそれでは全部読まないうちに飽きてしまう可能性もあるし、専ら図書館から借りて読むようになってからは、そんな書き入れも出来ないし、返却期限もあるのでそんなちんたら読んでいられないし、読まなきゃいけない本もたくさんあった訳で、凝り性の飽き性の私も気の向いたところから齧って行く、という気儘な読書は出来なくなっていた。で、1日1題と決めて、1章・1節が長かろうが短かろうが、必ず毎日1題ずつ読むことにしたのである。そして、論文集のうち1つだけ参照の必要が生じたときなどにも、頭から1題ずつ読んで、なるべく全部読むようにした。『平家物語』なども専門でもない限り、なかなか頭から通して読むようなものではないように思うが、これも研究会での発表で一ノ谷の合戦について調べることになり、そこで頭から読んだ。思えば、時間が贅沢にあったからそんなことが出来たのだ。今はとてもそんな余裕はなく、摘み食いに摘み食いを重ねている。
 それから、頭から読まないといけないという強迫観念(?)に似たものとして、5月7日付にも書いたけれども、なるべく初版本で読むということがあった。これは購入するつもりがないからこそ拘泥れたことで、かつ、私が小中学生当時住んでいた市の図書館が戦災を免れて戦前の蔵書を保存していたから可能な発想だった。高校時代はそういう環境になかったが、大学ではやはり戦災を免れた大学図書館の恩恵に与り、卒業後も校友として利用できているので、発想を改める必要に迫られずにいる。
 それはともかく、そんな訳で、私は『妖怪談義』も現在一般に流布している講談社学術文庫本ではなく、大学図書館にあった修道社(現代選書)版で読んだ。
 今年に入って、佐々木喜善のことなどを書いているうち、『妖怪談義』を参照する必要があって差し当たり近所の公立図書館にも所蔵されている講談社学術文庫本を借りてみた。そして、これはいけないと思った。
 それから平成10年当時の読書メモを探してみたところ、当時も(すっかり忘れていたが)講談社学術文庫本を参照していて、こんなメモをしていた。

柳田國男講談社学術文庫135 妖怪談義』昭和52年4月10日第1刷発行・昭和63年8月20日第14刷発行・定価560円・講談社226p.
※原本では表題の下に示されていた初出誌・年月が削除されている。よって、62頁の(附記)に「家庭朝日という雑誌」について縷々述べている理由がよく分からない。表題の下に収めるのが困難としても、別に初出一覧を設けるべきだ。また、この本の性質上、索引を削ったのも賢明な措置ではない。繰り返し述べている事項もあり、もとより通読するより拾い読みに適した短文集だから、何がどこにあったかを示してもらえると非常に有難いのである。原本にはその用意があったのを、良くなってしかるべき新しい版では省いてしまった。これは改悪というべきである。


 以下、ここらへんの事情について、確認してみたい。(以下続稿)