瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

塩嘗地蔵(01)

 かつて、鎌倉は十二所の塩嘗地蔵について調べたことがあった。大学の授業のレポートとして提出した。秘かに期するところがあったのだが空振りで、教授からは何の反応もなく、そのままお蔵入りと相成ったが、その後も図書館に寄ってガイドブックの棚や、地理(関東地方)の棚の前に立つ度に、鎌倉の本を手にしては十二所方面を開いてしまう癖が、17年半を経過した今でも抜けずにいる。しかし別にどうしようという気もなかったので、メモを取ったりするようなこともしないまま、過ごしていた。
 しかし、今日、ふとヤングアダルトコーナーで手にした本に、次のような記事を目にして、急に、やはりこいつぁどうかして置いた方が良いような気が、してきた。

 本堂の右手の地蔵堂にある地蔵は、もとは朝比奈切通しを経て六浦の港へ通じる金沢街道にあったものです。かつて六浦では製塩がさかんに行われていました。六浦から鎌倉へ塩を売りに行く商人が道端の地蔵に塩を供え、帰りに見るとその塩がなくなっていたことから塩嘗地蔵の名がついたといわれています。この地蔵も、塩を持ち去った人の身代わりになったわけです。


 岡田寿彦・関戸勇『カラー版 鎌倉 感じる&わかるガイド(岩波ジュニア新書463)』(2004年3月19日第1刷発行・定価980円・岩波書店・194頁)II テーマでつかむ(67〜188頁)4 信仰・伝説と鎌倉(132〜151頁)の「頬焼阿弥陀と塩嘗地蔵」という、十二所の光触寺を紹介した節(140頁。141頁に写真)の最後の一段である。「この地蔵も……」というのは光触寺の本尊にまつわる身代わり伝説『頬焼阿弥陀縁起』と同様に、ということで、うまいこと書いている訳である。

カラー版 鎌倉―感じる&わかるガイド (岩波ジュニア新書)

カラー版 鎌倉―感じる&わかるガイド (岩波ジュニア新書)

 検索したこともなかったのだが、今「塩嘗地蔵」もしくは「塩なめ地蔵」で検索してみると、鎌倉の塩嘗地蔵についての記事がいくつもヒットするのだが、似たような説明が殆どである。異説を挙げているものもあるが、歴史的変遷までは追っていない。だからこの説明と異説とどちらが信頼すべき説明なのかが、イマイチ良く分からない。
 で、結論は17年前にもう出ているので、この説明は、まぁぶっちゃけたところが、嘘である。私の当時の見当では、現在流布している説は昭和30年代に発生して、昭和40年代に永井路子の著書で流布したものなのである。
 で、当時、ガイドブックを中心に百数十種の文献を調査して一覧表を作成したのだが、ワープロに入力したそれらのデータは、今や俄に見られないので、もう諦めるしかないと思っているのだが、感熱紙に印刷したものは褪色しながらも探せばどこかにあって、黒くはなくとも文字は読めるはずである。しかしまぁ、ぼちぼちとその後の刊行物なども参照しつつ、思うにこんなことをぐだぐだと述べるのが瑣事加減ならんと思い、正直適当な埋め草が欲しかったということもあるが、泥縄式に述べてみることにしたい。