瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

駒村吉重『君は隅田川に消えたのか』(4)

 昨日の続きを少々。
 山と溪谷社のHPには「お詫びと訂正」というページがあります。もちろん山の案内書が間違っていたら死にかねない訳ですから当然ですが、重大な結果が予想されないから放置して良い、とは思いません。ネット上では一部、著者や篤志の読者で正誤表を作成してアップしている人もいますが、同じ版元の本が分散したり複数乱立したりしていると、探し難くてなかなか役立てることが出来ません(Amazonレビューにもこのような指摘はあるがやはり探しにくい)。版元が見逃して出してしまったのですから、著者にも協議・確認をした上で、版元のHPでまとめて告知するのが良いのではないでしょうか。そして増刷に際してアナウンスなしにしれっと直すのは、止しにしてもらいたいものです。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 私はノンフィクションというのは殆ど読みません。それは今度本書を読んでみて、「ひざをうつようにして」「眠りをむざぼっていた」などの言葉の綾、或いは「だろうか」「といっていい」「ということだろう」「はずだ」といった文末に少々抵抗を覚えたのですが、どうもこれと似た感覚を、かつて別の人物のノンフィクションで感じたことがあったからだろうか、と思ったりしています。記憶にはないのですが。本書は編集者から「わりと文学的」と言われたそうですが、事実を基にした読み物であるノンフィクションは、そういう傾向を強く示しても構わないものだとしても、もう少し藤牧氏や同時代の人々の声(本人たちの記述、ということですが)に語らせた方が良かったのではないか、という気がしました。
 尤もこの、あまり生の資料を料理せずに、うまく配列して解説を差し挟みつつ、出来得る限り資料そのものに語らせる、という書き方は、単に私の好みというまでで、特に抵抗を感じない読者も多いのでしょう。しかしながら、私のような何かと突っ掛かってしまう読者にとっては、著者による解釈だけで資料の原文が示されていないと、その解釈がなんだかおかしいと感じても、俄に確かめる訳に行きませんから、隔靴掻痒な訳です*1。が、そういうことを、ノンフィクションに求めるのが無理な注文なのだとすれば、やはり最低限『藤牧義夫 眞僞』を読んで出直して来るしかなさそうです。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 ですから、以下、個別の指摘に移りますが、そういう類の個人的な傾向に基づく不満は抜きにして、ざっと読んでいて引っ掛かってメモを取った箇所、つまり編集者が当然引っ掛けて置いて確認を求めるべきだったと思われる箇所について、挙げて行きます。メモは広告の裏紙に走り書きしたもので、自分でも一読何なのか分からないような代物です。そこで私自身も改めて、何に引っ掛かったのか理解しないといけないので、少々しつこく確認しながら書いてみました。ですから、人の誤りをしつこく確認するような作業が苦手だという方は、御遠慮下さい。
 1頁18行。空白の行は数えません。段落替えが非常に多いのですが、段落の途中で改行してある場合、改行箇所を「/」で示しました。
・父巳之七死去の辺りの記述
 25頁9〜13行めに次のようにあります。

 あくる大正十一(一九二二)年の夏には、ついに代書業の看板もはずした。
 こんどこそ、ほんとうの隠居である。
 老体は、確実にくだり坂を歩いていたが、まだその年の暮れには、食卓を囲んで軽口をたた/くぐらいの余裕はあった。
 大晦日の夜の団らんを、義夫はこまかく『三岳全集』に書きとめていた。


 そして大晦日の実に楽しげな様子が25頁14行めから26頁10行めまで描写されているのですが、その中に26頁1行め「巳之七は、この九月一日におきた関東大震災の悲惨を持ち出し」とあります。ここで、ちょっと「おや」と驚かされます。引用部分を読む限り、「その年の暮れ」とは「大正十一(一九二二)年」としか思えないからです。
 その続き、26頁11〜13行めには、

 この大晦日の団らんを思うと、迎えた年にやってきた別離が、嘘のようでもある。父と一緒/の年越しは、あれが最後になったのだ。
 大正十三(一九二四)年九月十九日、巳之七が逝った。

とあります。だとすると、25頁11行めの「その年の暮れ」がおかしいので、実は「その翌年の暮れ」なのでした。
・年齢の混乱
 35頁17行め「弱冠十五歳」とあります。「弱冠」は二十歳のことだ、などというつもりはありません。ここは15〜16行め「…… 昭和弐年五月十三日記之」という藤牧氏の文についての駒村氏の説明ですが、藤牧氏は明治44年(1911)1月29日生ですから、昭和2年(1927)5月13日には満年齢で16歳、数えなら十七歳です。ここは単純に計算ミスでしょう。なお、本書では12行め「安政四(一八五七)年生まれの父・巳之七」の年齢を、18頁4行めに「義夫をもうけた明治の末年には、すでに五十四歳をむかえる翁」と記しているように、満年齢で統一して記述しています。従ってここは「十六歳」とあるべきです。
 152頁15行め「自分より三十五歳も年下」とありますが、洲之内氏は「大正二(一九一三)年」生(150頁7)、大谷氏は「昭和五十二(一九七七)年の夏」(117頁2)に「弱冠二十七歳」(118頁4)ですから昭和24年(1949)か25年(1950)生です。しかし誕生日が分からないと生年が算出出来ない満年齢は面倒臭いな*2。それはともかく、36歳か37歳差で、14頁2行めに「三十二年前の秋の日」など、他のところでは大体の数字(概数)にはしていませんので、ここは正確な数字を示すべきだと思います。(以下続稿)

*1:例えば、タイモン・スクリーチの翻訳で、訳者たちは江戸時代の文献を日本語の原文(古文)で引用しているのですが、前後に見えるスクリーチ氏の解釈には随分怪しいところが窺われます。こういう辺り、英文の原書では引用の江戸時代の文献はスクリーチ氏による英訳だったはず(英語の読者に江戸時代の古文を示してもしょうがないですから)で、すなわちスクリーチ氏が如何に解釈したかがモロに出ているはずなのです。しかし訳者たちはそれを無視して原典に遡って原文を引っ張ってくるので、これらの訳書ではスクリーチ氏の誤読がかなり隠蔽されているように思うのです。尤も、原文がなく英訳の翻訳だけではいよいよ問題点が分かりにくくなってしまいますので、出来れば瀬戸内寂聴訳『源氏物語』みたいに、原文(和歌のみだが)に訳を添えるというようにして欲しいのですが。そうすれば原文とスクリーチ氏の英訳(の翻訳)をモロに対照して検討出来ますし、そういう興味のない、今時の古文が怪しくなってきた日本人読者にも親切だろうと思うのです。それはともかく、以前そんなことを思ったのですが(買う気はないので)原書を探し英文を確認する、という手間を惜しんでいるうちに10年以上が経過し、当時のメモもどこかに埋もれてしまいました。いずれ掘り出して来て、その後刊行されたものと引っくるめて述べる機会を持ちたいと思います。そういうことをするのが、このブログ開設の目的の1つだったのですから。……以上本書とは何の関係もない全くの余談でした。

*2:満年齢は誕生日が分からないと算出出来ないので、先に引いた箇所のような「すでに五十四歳をむかえる翁」という、少し変な書き方になってしまう訳です。「数えで五十五歳」で良いと思うのですが。尤も、藤牧氏と同世代ながら戦後を長く生きた洲之内徹(1913.1.17〜1987.10.28)の書いたものになると、153頁16〜17に引用されているように満年齢になっています(HP「洲之内徹資料室」「洲之内徹略年譜」により確認)。戦後も30年以上を経て書かれたものだから当然なのですが。満年齢のことは「五十四歳」ではなく7頁4行め、藤牧氏についての「わずか、二十四歳と八ヵ月」を挙げた方が良かったか。しかしここも、1月29日生で9月2日失踪ですから、「七ヵ月」とするべきでしょう、細かいようですが。