瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

美内すずえ『ガラスの仮面』(7)

 文庫版で指摘した点について、単行本の頁を示してみたい。
 単行本と文庫版は一致していない。
 8月27日付(2)に、「台詞・心内語(吹き出し)で原本では活字(明朝体・丸ゴシック体)で区別」と文庫版での処理について述べたが、単行本では心内語は丸ゴシック体ではなく普通のゴシック体である。この作業の過程で当然チェックも入ったであろう。実際、改訂された箇所も指摘されている。
 これは文庫版を貸してくれた人が気付いて教えてくれたのだが、文庫版第1巻36頁6コマめ、杉子さんの台詞「な…なによ/どうかしてるわ この子…」は、単行本第1巻36頁では「きちがい…/きちがいだわ この子…」となっていた。
 この点は、既に「(放送事故、ハプニング)タレコミコーナー」の、「放送事故【きちがいについて】」の「アニメで「きちがい」」のところに指摘がある。ここの指摘ではアニメ版(2005年)での変更と見ているが、文庫版(1994年)で既に変えられていたものと思われる。最近の単行本はどうなっているのだろうか。ちなみに「杉子(マヤやその母(春)が経営する『万福軒』で働く女性)」とあるのは、マヤの母が横浜中華街の裏通りにある万福軒の住み込み店員で、杉子は経営者の娘である。単行本第9巻22頁4コマめのマヤの台詞に「うん あの… 前に横浜にいたときの食堂のお嬢さんなの/あたしの母さん その食堂の住み込み店員なの」とある。

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 もう1つ「(放送事故、ハプニング)タレコミコーナー」に指摘されている単行本第2巻14頁6コマめの通行人男性の台詞「おたずねしますがここはきちがい病院ですか?」だが、文庫版第1巻194頁では「おたずねしますがここはどういう施設ですか?」となっている*1
 もちろん、精神障害等に苦しんでいる人たちへの理解や同情を欠いた表現であるのだが、当時、漫画家がこう書いて編集が自主規制していない、つまりこういう言い方が普通に行われていた事実は、隠すべきことではないと思うが、携帯電話が登場して作中の時代が昭和50年代ではなくなってしまっているので、それに合わせる配慮は必要なのかも知れない。
 一昨日昨日とテレビ朝日で「砂の器」をやっていた*2。やはり本浦千代吉はハンセン病ではなく、今度は一家皆殺しの強盗殺人容疑を掛けられたことになっていた。2004年のTBS日曜劇場の「砂の器」では、本浦千代吉がダム建設に絡んで村八分にされ、妻の病死をきっかけに村人の大量殺人に走る、という設定に変更されていたが、村八分にされてまでダムに水没する村に居残る理由がないし、大量殺人犯があんなに堂々と子連れで長々と放浪出来る訳がない。ハンセン病に触れることはタブーになっているようである。しかし、戦前の日本では、仏教の因果応報の考え方に基づいて、病人を差別する発想があったから放浪せざるを得なくなったので、殺人犯の嫌疑というだけなら、田舎を出て係累のない都会に紛れ込めばそれで済むはずだ。
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 ハンセン病に限らず、病人が差別された理由だが、これは因果応報の考え方に由来している。すなわち、因果応報というのであれば、善因善果(良いことをすれば良い結果)悪因悪果(悪いことをすれば悪い結果)ということになる、はずなのだが、実際の世の中、そうはなっていない。もちろん、良いことをすれば良い結果になる可能性は高いだろうし、憎まれるようなことをすれば仕返しされる可能性が高くなるだろうが。しかし実際には、良い人が不幸になったり悪い病気にかかったり雷に打たれて死んだり、逆に悪人が栄えたりする。そこで、現世というスパンでは説明出来ないので、前世とか来世とかを絡めた説明をすることになる。この世で善人なのに病気や悪縁に悩まされるのは、前世での悪業の報いなのである。反対に、極悪人が天罰を受けることなく栄えているのは、前世での善業のおかげなのだ。だから現世で善行を積み重ねて、たとえこの世で報われなくとも、来世での極楽往生に期待するのである。
 そういう説明が行われていた前近代以来の発想を引きずっていた時期には、現世に悪因がなければ前世に悪因があったことになってしまうので、結局悪果を受けたのは本人に悪因があることになってしまう。自業自得、少し前の流行の言葉で言えば自己責任、である*3。だから、どんなに善人であっても、最後の最後に悪い死に方をすれば、実は悪人だった、ということになってしまう。今でもこのような発想は残っていて、だから霊能者が悪霊を絡めた説明をしたりして、それに納得する人がいる。しかし、こうした発想がなかったことにしてしまっては、過去とは単に現代とはコスチュームが違うだけの、綺麗事の世界になってしまう。
 話が『ガラスの仮面』から逸脱してしまったが、――言葉はその時代の発想を反映している。携帯電話を持ち出した『ガラスの仮面』での差し替えは、その意味で正しいのかも知れない。しかし、だとするとやっぱり他の部分も昭和50年代らしい*4のはおかしいのではないか、という気がする。例えば、現在ではあの豪壮な劇団つきかげ(単行本/文庫版第1巻149頁)がたかだか「5000万の借金」(単行本第3巻77頁/文庫版第2巻131頁1コマめ)で建てられる訳がないし、マヤの「アルバイト」の日給が「朝8時から夕方6時まで1日1500円」(単行本第2巻18頁/文庫版第1巻198頁2コマめ)などの金銭感覚の齟齬も、当然問題になってくると思うのだが。

*1:2018年9月19日追記】以上2箇所については、既に2ch(現・5ch)のスレッド「使用禁止用語等を使ってしまった少女マンガ」の2000年8月4日付の複数の書込みに指摘されていた。

*2:2016年10月22日追記】見たのかどうかも覚えていないが、商品化されているので貼付して置く。

*3:【9月17日追記】「自業自得」以下ここまで加筆。

*4:【9月17日追記】昭和40年代というべきか。