瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

七人坊主(3)

 平成3年(1991)7月刊『ほんとうにあったおばけの話⑩』所収、菊池俊「七人ぼうずのたたり」は、末尾(101頁)に(わたしの体験をもとにして書いたものです)とあるから、普通はM氏のように、体験した本人が、自ら喋っている調子で書いたものだ、と思う。
 この事故は昭和27年(1952)11月19日に起こった。『怪奇探偵の実録事件ファイル2』32〜33頁に当時の地元紙をもとに概要が紹介されている。33頁には記事も図版として掲載されているが、文字が小さいので読みづらい。いずれ小池氏が59頁に[参考文献]として挙げている「『南海タイムス縮刷版3 昭和二十六〜三十年』(南海タイムス社)」にも当たってみようと思っているが、事故の発生は午前8時40分頃、午前中に現地に入った記者が遺体の発見時間を一々記しながら捜索状況をまとめているが、当日に掘り出された死体は5名、死亡した7人全員が発見されたのは翌日の午前7時50分である。これは菊池氏(100頁)が記す「全員が掘り出されるまでに、二時間はかかったと思うな」と、全く一致しない。
 『ほんとうにあったおばけの話』シリーズの「著者略歴」は、10月12日付「『ほんとうにあったおばけの話』(11)」にも指摘したように、現在の居住地(自治体名)と所属団体・著書が記されているに過ぎず、地名がぼかされていると「わたしの体験」がどこのことだったのかも、俄に追跡できなくなっている。そこで日本児童文学者協会編『現代 日本児童文学作家事典』を補足資料として取り上げたのだが、これには出身地や学歴・現在の職業に現住所・電話番号まで記してある。
 菊池氏が立項されていることも既に確認済みだが、84頁に「菊池 俊(きくち たかし)」として「昭和二二(一九四七)年七月二四日、東京都八丈島に生まれる。都立八丈高校卒、大東文化大学中退。現在は工員……」で主な作品として『ほんとうにあったおばけの話⑩』148頁「著者略歴」にあった2冊と共著の1冊、そして現住所は鎌倉市である。
 菊池氏の文の語り手は「おれは、そのとき二十五歳だった」と言っている(95頁)。だとすれば、昭和2年(1927)生ということになる。もちろん当時5歳の菊池氏本人ではありえない。
 では、(わたしの体験をもとにして書いたものです)とは何なのか、ということになるのだが、労を厭わず『ほんとうにあったおばけの話』シリーズ収録の全部の話について確認してきたように、著者本人の体験は(わたしの直接体験です)となっていた。中には『ほんとうにあったおばけの話①』かみやとしこ「粉ミルクください」の(わたしの直接体験と友人の体験をもとに構成しました)や、『ほんとうにあったおばけの話④』松岡芳子「むかえにきた死人たち」の(わたしの直接体験を、わが子の目をとおして書きました)のような例もあるが、これらに比べてこの菊池氏の、(わたしの体験をもとにして書いたものです)は異例なのである。
 尤も、異例だと分かるのはシリーズを通覧していればの話で、これだけを取り上げたのでは分からない。とにかく誤読を招く、紛らわしい書き方であることは間違いない。それにしても当時5歳の菊池氏の「わたしの体験」とは何なのか。新聞記事を見るに「菊池」姓の人物は見えない。現場にトラックがあったのかも記されていない。「三十年まえ」(94頁)とあるが、『⑩』が刊行された平成3年(1991)からなら40年前である。事故のあった年が確定している以上、ここは事故の30年後の昭和57年(1982)頃に、55歳の「トラックの運転手」(95頁)が語ったという設定になっていると解する他はない。或いは、菊池氏がその頃帰省して関係者に取材するなどしてまとめたのだろうか?(以下続稿)