瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

七人坊主(15)

 続き。
 「」節に(一)〜(六)の6項目に分けて、個々の話について分析を試みているが、(四)が七人坊主で「八丈島中之郷の伝承の中での特徴」を示すものと指摘されている(21〜22頁)。
 まず「私は「七人坊主の話」は一応伝説に分類してみた」とする。そして、矢口氏の調査での「伝説総話数四七話のうち」「七人坊主に関する話は六タイプ一二話と伝説の中においても顕著な話群といえる」と指摘している(以上21頁)。それから「中之郷の草わけに関する話」である「七軒在所(家)」を「この話との関連」で「とらえることができる」、と注意している(初出はここまで172頁)。これは「八丈島中之郷のはなし」に「18・七軒在家」として、(佐々木■■郎)の話が紹介されている(45〜46頁)。33頁「2・タナバァのこと」①に(中里・佐々木■■郎・M17生)とあって、明治17年(1884)年生である。佐々木氏の名前は浅沼良次『八丈島の民話』にも見えている。10月8日付(5)に年齢が(七八)と(八〇)と違っていることに注意して置いたのだが、刊年の昭和40年(1965)は満81歳になる年だから(七八)が間違いと分かる。或いは浅沼氏が佐々木氏を調査した時期が、佐々木氏78歳の昭和37年(1962)から翌38年だった、ということなのであろうか。
 それはともかく、「七軒在家」は、八丈島に漂着した13軒の公家のうち7軒が中之郷に住み着き草分けとなった、とする伝説で、漂着したのが「七」というところは一致するものの、私にはあまり関連があるようには思われない。
 それから、祟りの話との関連を述べている。

……。そして、話が民衆の中に根強く位置している証として、現在世間話へと転化しているので/ある。
 その話とは、昭和二七年東山を横断して潮間に通じる林道工事が進められた時、その工事で働/いていた若者が頂上近くで仕事をしながら、おもしろ半分で七人坊さんの悪口をいったり「坊さ/ん、坊さん」といってはやしたてたら、山崩れがおこって生き埋めになったり死んだ者の数が七/人坊さんと同じ七人であったと言う。
 この話は、今でも中之郷の人たちの心意の中にとどまり「七人坊さんのたたり」という形で話/され、七人坊さんのはてたと言われるハテイの川と呼ぶ所や塚を建ててまつってある所が数カ所/ある。そして、これらの所で「坊さん、坊さん」と言ったり、坊さんの悪口を言ってはいけない/とタブー視している。
 このような一連の心意の伝承こそ、伝承そのものの位置づくものと言えるのである。この七人/坊さんに関する話をみると、七人坊さんに対するタブー観とか、民衆の一連の心意の中で伝承は/創造されたと言えよう。*1


 ここに書いてある内容については、「八丈島中之郷のはなし」も見た上で検討したい。(以下続稿)

*1:初出172〜173頁、「その話とは、」の段落から173頁。異同は送り仮名「証し」「生埋め」の2箇所。また(四)は、初出では( )ではなく○の中に四。