瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

平井呈一『真夜中の檻』(03)

 もう少し時期の確認をして見たい。
 手記の主人公(風間直樹)が麻生家に出掛けたのは、大学時代の「恩師辻村清助博士」の紹介による(18頁)。「博士は先年、同じ県下N――市に郷土博物館が開設されたさい、県人の先輩名士として記念公演をたのまれ、そのとき出品者の一人であった麻生氏とはじめて面識の機をえられたのであった」(18頁)が、そのとき、麻生氏から所蔵する古文書について、「だれか若い奇特な専門の人があったら、いちどすっかり目を通して整理してもらいたい」との話があり、それで主人公が辻村博士の紹介状を得て、昭和24年(1949)の夏季休暇に、麻生家に行くのだが、この「先年」は、昭和22年(1947)と思われる。
 すなわち、辻村博士に若い専門家による古文書の調査を依頼していた当主の喜一郎は、「去年」(25頁)「昨年の旧盆前」(29頁)に死んでおり、「来月がご主人の一周忌」(38頁)ということで、昭和23年(1948)8月に死亡している。そして珠江未亡人の口から時間の経過が以下のように語られる(51頁)。

「はあ、――そのころは主人もまだ元気でございましてね。郷土博物館の開館が昭和二十×年の五月でしたから、そう、その年の秋頃からでございましたわね、なんとなく寝たり起きたりするようになって……」


 それは「胸の病気」結核の再発であった。珠江夫人は転地療養を勧めたものの病人が「半年は雪のなか」の生家を離れることを嫌がり、その翌年には死んだらしく読める(51頁)。年齢は明示されていないが「齢不惑にも達せず」とある(52頁)から、30代後半として明治末(1910年頃)の生まれということになる。
 ところで、珠江夫人の年齢が示されていない。「学校は東京」で「実家は千葉の海岸」だという(39頁)が、結婚の経緯は、喜一郎が母の死後に、許嫁がありながら親戚一統の反対を押し切って「ひっぱりこんだ」のだと、主人公が喜一郎の叔母の婿から聞かされる場面がある(79頁)が、肝腎の2人が知り合った経緯は書かれていない。出会ったのは喜一郎が勉学のために都会に出ていた時期(東京の大学か)であろうが。年齢がはっきり示されるのは、アルバムの写真を主人公に見せる場面(62〜64頁)のみである。以下、唯一の具体的な数字「二十二」が示される前後(63頁)を引用して置こう。

「これは奥さん、失礼ですがお幾つぐらいの時のですが?」
「そこに書いてございませんこと?」
 珠江夫人はわたしの膝の上のアルバムに顔を近づけて、
「書いてございませんわね。主人とはじめて佐渡へまいった時のですから、たしか二十二の時でしたかしら……」
「しかし、ここいらの写真で拝見すると、奥さんはちっともお変わりにならんですな。お変わりにならないどころか、今の方がお美しいくらいですね」

 
 随分「お変わりにならん」ことが強調されているから、それから10年は経過して、今は30代半ばという見当であろうか。
 ところで「N――市」だが、「新潟」は明記してある(19頁、51頁、79頁)ので違う。小千谷からの距離からして、長岡市なのであろう。郷土博物館や辻村博士のモデルなどは調査していない。(以下続稿)