瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

平井呈一『真夜中の檻』(05)

 「戸崎信夫」は主人公の「中学時代からの友人」で、「丸の内の新聞社」に「勤めている」(20頁)。手記を託(そうと)したくらいだから、主人公の戸崎への信頼は一方ならぬものがあるが、出発の「数日前」にも「有楽町の茶房」で会って「こんどの旅行の計画」を「くわしく話して」いて(21頁)、さらに「上野をたつとき」にも「電話をかけ」ている。しかし「あいにく、戸崎は不在であった。」(20頁)
 これについて、主人公はこんな感想を述べている(21頁)。

 わたしは平素から縁起などかつぐ人間ではけっしてない。それがそのときは、戸崎の偶然の不在がなにかこの旅行に不吉な前兆でももたらすような、まるでふだん考えてみたこともないそんな心持がふっとしたのは、なぜだったのだろう? じっさい、そのときの気持をすこし誇張していうと、できれば予定を一日延ばそうかとさえ、わたしは一瞬本気にそう思ったくらいであった。しかも、いつにない自分のそうした気持の動揺を自分でその時はすこしも怪しまなかったのだから、今にして考えると、あれが俗にいう虫が知らせるというやつだったのかもしれない。かれこれ思いあわせると、たしかにあの時あたりから、なにか目に見えない魔の力がすでにわたしの上にそろそろ働きはじめていたのだ。わたしは今ではほとんどそう確信して疑わない。


 初め読んだときにはあまり気にならなかったが、最後まで読んだ「今にして考えると」ここが利いていることに気付かされる。そして、主人公の戸崎への依存の強さがよく現れている。
 過去、中学時代などに戸崎とどのような交遊があったのか、具体的な例は示されていない。主人公は自分で「わたしの生まれつき偏狭孤独な気質」また「自分の世間見ずな、いわゆる野暮でへんくつな、社交性を欠いた性質」と述べている(21頁)。こうした「偏狭で融通のきかない、一本気で野暮天」な気質(85頁)の原因として主人公は、主人公が「五歳」のときに発狂し、座敷牢に押し込められて「八つ」の時に死んだ(83頁)「父の血を多分に持っているようである」と分析している(85頁)。但し、これらは自己申告で、辻村博士や戸崎とのやりとり、また麻生家に於ける珠江夫人とのそれを見ても、別に偏屈な人物という印象は受けない。奇行に走った例としては、84頁に「終戦の翌年、郷里の旧制の中学を終了して」進学した「同じ県下の新制の大学」を中途退学して「猛勉強」を始めた際に「過度の勉強」の結果「頭がボーッとしてくると、わたしは手あたりしだいに器物を投げつけたり、喚きちらしたり」などの「狂態を演じた」ことが示されているが、これなどは「俺って昔ワルだった」「昔やんちゃした」とかいう自己申告を聞かされているみたいだ。いや、自殺行為に及んで死にかけてもいて、そのときにアニメ版『サザエさん』で言えば“悪いカツオ”みたいな自分の分身に「もっとやれっ!」などとけしかけられたとか、書いてあるのだけれども。けれども、おかしいと言ってそのくらいで、手記の内容は確かに異常であるにしても、書いている人物の異常は、あまり感じない(編者の戸崎もそこは疑っていない)ので、この回想は少々浮いている、――上手く嵌込まれていないように感じられる。
 それはともかくとして、1人で「郷里の生家」に引き籠もって「猛勉強」している(84頁)うちにおかしくなった訳で、言ってみれば「ひきこもり」の問題児、という訳なのだが、退学自体は「二、三の同士と語らって」の決断(84頁)であって、大学でその性格から完全に孤立してしまって、変な判断をしてしまったとかいう訳でもなさそうで、やはり自己申告で自分の異常さを誇大に述べているような感じがしてしまう。――そう言えば、今度の芥川賞作家が「友達いません」とか言っていたけれども。
 そして、どうにも、理解しがたいのがこの辺りの時間の経過である。
 主人公は、昭和24年(1949)の春に大学を卒業しているはずである。昭和24年度には高校の専任教師になっている。そして、昭和25年(1950)に行方が分からなくなり、その10年後の昭和35年(1960)に編者により遺された手記が発表されるのだが、――どこがおかしいと言って、そもそも「終戦の翌年」にはまだ「新制の大学」は発足していない。しかも、一旦入学した大学を中退して「戸崎のあとを追って」入学した「東京の××大学」(84頁)の「史学科を卒業した」ことになっている(7頁)。「戸崎のあとを追って」という辺りに戸崎への依存心を窺わせるのだが、これではどう勘定して見ても年数が足りない。4年制の新制大学ではもちろんのこと、主人公や戸崎が入学したはずの、3年制の旧制大学でも無理な計算なのである。(以下続稿)