瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

平井呈一『真夜中の檻』(07)

 今度は地理について、大まかな確認をして見たい。
 地理の確認には、差し当たり入手参照がし易いことと、現在どうなっているかの見当を付けるために現在の地図を利用する。
 しかし、それだけではいけないので、やはり当時の地図との対照が必要である。加えて、当時の記録、例えばこの頃の小千谷の記録や、昭和24年に上越線で新潟に向かった人の紀行など、それから新聞(全国紙・地方紙)などとの対照もしたいところだが、それは後回しにして、今は大体の見当を付けるに止めて置く。直ちにそういう作業が出来るような余裕がない。かと言ってそれを済ませるまで寝かせて置くと、話の内容を忘れてしまいそうだから、覚えているうちにと思ったのである。これまで中絶している話題の反省からしても。

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 平井氏は昭和20年(1945)から2年間、疎開先の新潟県小千谷の旧制中学で英語教師をしていた。そこでこの辺りを舞台に選んだらしい。現地の人間は関東出身の珠江夫人を除いて越後の方言を喋っている。喜一郎の叔母婿で信州松代出身(75頁)の儀三郎老人も「よそから来たもんだすけ」と、すっかり越後の方言になっている(77頁)。この方言は平井氏の疎開・教員生活の経験に基づくもので、偽方言にはなっていないようだ*1
 まず、上野から乗って来た列車を下りたところ(23頁)を引いてみよう。「O――」は既に指摘したように小千谷である。

 目的駅のO――でおりたのが三時ちょっと過ぎであった。地図でみると、駅から法木作村まで、約十二キロの行程である。若い駅員にきくと、駅前から一日に三本出る岩沢行(法木作にいちばん近い村)のバスの午後の便が一時間前に出てしまったあとだという。最終便は六時発だというので、わたしはおよその道順をきいて、地図をたよりに徒歩で行くことにした。徒歩で行くなら、岩沢まわりでは遠まわりになるから、吉谷経由で行きなさい、八キロそこそこだから明るいうちに着きますと、駅員はしんせつにおしえてくれた。


 この距離について述べているところ、何故こんな書き方をしているのか、分かりにくい。最初、法木作まで「約十二キロの行程」といっていたのだが、その後で駅員にいわれて「八キロそこそこ」ということになる。
 しかし、地図を見て距離を測る場合、まずは実際に通る道の長さではなく、直線距離を測って、それからその直線に近い、なるべく行程の短くなる道を探すものだろう。主人公の持っていた地図がどんな地図だったのか、まだ見当を付けていないが、何れにせよ法木作村周辺の道路が記載されているものでないと役に立たない訳だから、駅から南西に当たる法木作村(のモデルの集落)までの直線距離を測れば、自ずと「吉谷経由」の「八キロそこそこ」の道の存在が注意されるはずである。
 かつ、「いちばん近い村」ということになっている「岩沢」だが、これは飯山線越後岩沢駅の辺りだろう。越後岩沢駅まで乗らずに、すなわち乗換駅の越後川口で下車せずに、次の小千谷までそのまま上越線に乗ったことになっているのは、乗換の都合もあろう。が、小千谷駅から越後岩沢駅まで南に直線距離で8kmほどあり、これでは法木作村までの距離と変わらないくらい離れている。それで、法木作村のモデルとなった集落までの距離が近くなるのかというと、越後岩沢駅からなら北西に直線距離で6kmほどもある。これではわざわざバスで岩沢まで行くまでもないので、なぜ主人公にこういう発想をさせたのかが、ちょっと分からない。
 続いて、次の段落(23頁)を見てみよう。

 戦禍をまぬがれた町とみえて、駅前には木っぱぶきの屋根の上にごろた石をのせた、見るからに古ぼけた見すぼらしい家並みがちらばっていた。人通りのまばらな、だらだらした一本道の通りをものの十町もいくと、大きな川にかかった長い鉄橋のたもとに出た。地図でみると、川はS――川である。鉄橋をわたると、そのさきが古いO――町であった。


 大きな「S――川」は信濃川、鉄橋は旭橋である。信濃川の右岸(東)に駅前集落があり、左岸(西)が旧市街である。この辺り、平井氏の当時の記憶に基づく描写であろう。当時の写真や地図と対照させて見ると面白いと思う。(以下続稿)

*1:私には越後に知合いはいないけれども、2011年5月7日付などに書いたように、30年近く前に昔話を多量に読んだことがあって、越後のものは野島出版や未来社から出ていた、長岡の水沢謙一(1910〜1994.7.2)の昔話集をよく読んだ。昔話は語りを重視するので、方言のまま記録されるのだが、それが平井氏の描く地元民の方言と同じなのである。いや、昔話の言葉遣いの方が日常会話よりも上品なのだけれども。