瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

平井呈一『真夜中の檻』(14)

 内山治作に初めて会ったのは、主人公が麻生家を脱出する前日の白昼である(94〜99頁)。その直後、麻生家を脱出しようとして登った裏山で、珠江夫人と一緒にいる治作を目撃する(104頁)。
 治作の死体は「九月十六日」に「法木作村から約二里離れた、里俗地獄谷と称する谷」の「崖」下で発見されているが、主人公が最後に目撃してから遺体が発見されるまでのいつ、死んだのかは、分からない。「地獄谷」はそれらしい名を挙げたまでであるらしい。約二里というと7〜8kmだが、信濃川と渋海川に挟まれた山地は300m台の山が連なる低山で、そんなに離れたら麓に着いてしまう。ここは「当人が平生行ったこともない」ところで遺体が見付かった、という設定(129頁)に合わせようとして、やや誇大に書いてしまったのであろう。

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 終戦直後のことを書いた辺りに見える混乱は1月23日付(06)1月22日付(05)に指摘したが、主人公の母の年齢にも少し疑問がある。
 「終戦の翌年」つまり昭和21年(1946)の「翌年」に主人公は「東京の××大学に無事パスし」ている(84頁)が、

……。母は安心してガックリしたせいか、その年の暮れ、わたしの行く末を案じながら、感冒がもとであっけなく世を去った。行年六十八歳。彼女の一生は苦酸と勤労の一生だった。まるで働くためと苦労をするために生まれてきたような人であった。……

ということになる(84〜85頁)。昭和22年(1947)12月に没したので、数え年だとすると明治13年(1880)生である。主人公の生年は1月23日付(06)に推測して置いたように大正15年度、すなわち大正15年(1926)か昭和2年(1927)と思われる。ついでに「父が死んだのは、わたしが八つ、姉が十一の時」だというから、主人公は大正15年(1926)生として昭和8年(1933)没、発狂したのはその3年前で昭和5年(1930)である(83頁)。この仮定によると姉は大正12年(1923)生ということになる。
 姉は「風間幾乃」といって(128頁)、昭和21年(1946)には「すでに婿をもらって、父祖の代からの荒物店」を継いでいた(84頁)。戸崎からの連絡を受けて夫婦で「岐阜県加茂郡K――町」から「急遽上京し」て、最後に住んでいたことが確認されたアパートに残されていた「遺品」を持ち帰っている(128頁)。
 こうして見ると、姉は普通に20代前半で既に結婚しているのだが、母は40代で2人の子を産んだことになっており、この辺り、やっぱりおかしいように思う。無理とは言えないが普通ではない。深く考え出したら両親の結婚やらそれ以前の半生やら、相当複雑な事情を想像せざるを得なくなるが、多分そんな想像を膨らませてみても仕方がないので、ここは平井氏が、深く考えずに勢いで「六十八」と書いてしまった、と見て置くべきなのであろう。(以下続稿)