「注」の比較の最後。
①にあって②にない注の続き。
二五二 苦しいことや……習性なのである もちろん話は、当人をなぐさめるのが普通である。
ここも本文『知られぬ日本の面影』の「日本人の微笑」(①239〜265頁)の該当箇所(252頁)を見るに、
……、日本人の感受性についてきわめて極端な誤解をいだかせている。苦しいことや恐ろしいことを話さねばならない時は、いつも当人の口から、微笑をもって語られるというのが、この国の習性なのである。事が重大であればあるだけ、微笑はいっそう目立つ。そして、話の内容が当人にとってきわめて不愉快な場合、微笑はしばしば、低い、おだやかな笑い声に変る。……
となっていたのが、②258〜259頁では以下のように書き換えられている。
……、日本人の感受性についてきわめて残酷な誤解をいだかせている。苦しいことや衝撃的なことをどうしても伝えなければならぬときは、いつも苦しむ当人の口から、微笑をもって語られるというのが、この国の習性なのである。事が重大であればあるほど、(以上258頁)微笑はいっそう目立つ。しかも、事の内容がそれを語る当人にとってきわめて不愉快な場合、微笑はしばしば低い、おだやかな笑い声に変る。……
こうして見ると、かなり訳文に手を入れていることが分かるのだが、この原注は何のことやら分かりにくいので削除したのであろうか。
その他、若干気になったものを挙げると、①一二六「十二セント 〔訳注〕現在の直に換算すれば千円あまりにもなろう。」は②一三〇でも同文だが、昭和50年(1975)と平成6年(1994)の1000円は等価なのか。
* * * * * * * * * *
訳文全体の比較などとてもでないがやっていられないが、「注」を比較するだけでも、②の改版でかなり手を入れていることが察せられる。しかし②にそのことを断る文言はない。従って、②の本文を引用して①の刊行年しか書かなかったりすると、混乱のもとになる。
ここに、私は引っかかってしまう。文庫本の改版は時流に従っての組み直し、例えば、昭和42年(1967)頃に行われている本字歴史的仮名遣いから新字現代仮名遣いへの改訂、それから昭和末から現在も続いている、活字を大きくする流れなど、内容とは無関係な改版が多い。解説の差し替えなど内容の加除も行われているが、これは見ればすぐ分かる。しかし、本書のように、訳文にかなり手を入れた場合は、どこかに「改版に際して訳文に修正を加えた」旨、きちんと断って欲しい。そうでないと他の文庫本の改版のように、内容は全く同じでただ組み直しただけだと思い込みかねない。いや、私も昔は改版の度に間違いなど細かく修正しているもんだと思い込んでいたのだけれども。