瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

夏目伸六『父夏目漱石』(05)

 初刊本の「あとがき」は以下の版には踏襲されていない。3段落から成り、1段め(17行)は本書出版の経緯、2段め(6行)は当時健在であった母(鏡子未亡人)について、3段め(4行)は序文を執筆した「岩田豐雄先生」について。冒頭部(1頁め)を引いてみよう。

 親父の事を一册の本に纏めて出版してはといふ話は、今迄に何度かあつた。最初は三笠書房か/らの依頼であつて、まだ私が二十五六の頃であるが、當時は何か書いて見ようなどと云ふ意慾/を、私自身まるで持つて居なかつた。終戰後、又かうした話を持込んで來た出版社が二三あつた/けれど、出したいといふ出版社自身がそれ程積極的でもないので、私の方も乘氣にならず、この/話も、實現するにはいたらなかつた。……、それでも、頼まれてボツ く 書いたものが、何時の間にか、一册の本に/纏まる程にはなつて居たのである。先日何の氣なしに文春の車谷君にその話をした所が、それか/ら二三日して電話があり、文春から出版して見たいと云ふ意向であつた。……


 「二十五六」は満年齢の25歳、数えの二十六歳として昭和8年(1933)という見当になる。
 ところで、2011年10月25日付(2012年3月15日現在)のWikipedia夏目伸六」の項、「経歴」のところに、

帰国後、1937年に召集を受けて日中戦争に従軍し、中国各地を転戦。このとき同じ部隊に慶應大学の同級生の沢村三木男(沢村宗十郎の四男)がいた。1940年に除隊した後、編集者・ジャーナリストとして文藝春秋社に勤務。その後、随筆家として活動し『父と母のいる風景』、「猫の墓」、そして『父・夏目漱石』の執筆を菊池寛より依頼される[1]。

という段落がある。脚注は以下のようになっている。

1.^ 『父と母のいる風景』(芳賀書店、1967年)所収『菊池先生のこと』の中で、伸六は「私の父は文士の印税制度に於て、その生活向上に意を用いたが、更に、その趣旨をおし進めて、これを確立されたのが菊池先生であり、而も、始めて会った私を摑えて、『君など、もっと早くうちへ来ればよかったんだよ』と云われた所を見ると、単に、文士個人に対する配慮丈でなく、その家族や遺族に迄、出来得る限りの便宜を与えてやりたいと云う気持を強く持って居られたのではないかと思う」とも述べている。


 私はついでに『猫の墓』『父の法要』『父・漱石とその周辺』『父と母のいる風景』も読んだが、どこにも本書の執筆を菊池寛(1888.12.26〜1948.3.6)に慫慂されたなどとは書いていない。記述の根拠として示されるこの脚注も、別に回想記の執筆を促したとは読めない。奇怪な拡大解釈というべきで、なぜこのような説が飛び出したのか、不明というより他はない。
 そこでこのページの履歴を辿ってみると、この注が「1.^ 夏目伸六『父と母のいる風景』(芳賀書店、1967年)所収『菊池先生のこと』」という形で附されたのは2008年8月13日付で投稿された版で、当時は本文は次のようになっていた。

帰国後、1937年に日中戦争に召集。中国各地を転戦後、1940年除隊。なお、同じ部隊に文藝春秋社社員(のち副社長)で慶応の同級生の沢村三木男(沢村宗十郎の四男)がおり、彼の紹介で帰国後文藝春秋社に入社し、社長である菊池寛から歓迎され、編集者・ジャーナリストとして活躍[1]。


 「社長である菊池寛から歓迎され」が少々変だが、この本文なら現在の脚注1.で何の問題もない。(以下続稿)