瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

夏目伸六『父夏目漱石』(06)

 脚注が現在の形になったのは2008年9月7日付で、このとき、本文の形も次のように改められている。

帰国後、1937年に日中戦争に召集。中国各地を転戦後、1940年除隊。なお、同じ部隊に文藝春秋社社員(のち副社長)で慶応の同級生の沢村三木男(沢村宗十郎の四男)がおり、帰国後彼を訪ねて文藝春秋社に来社した折、社長である菊池寛から初対面で突然「君、社へ入れてやるよ」と言われ、その一言で入社が決まり、それ以後、編集者・ジャーナリストとして活躍[1]。


 この本文が良かった。ところが、2009年2月14日付で以下のような訳の分からない書き換えがなされてしまう。

帰国後、1937年に日中戦争に召集。中国各地を転戦後、1940年除隊。なお、同じ部隊に文藝春秋社社員(のち副社長)で慶應の同級生の沢村三木男(沢村宗十郎の四男)がいる。創設メンバーである夏目伸六は後に社長である菊池寛から父・夏目漱石の出版を依頼され、その後編集者・随筆家として活躍することとなる。[1]。


 菊池寛が『父・夏目漱石』の出版を依頼、などというのは嘘だし「創設メンバーである」は意味不明である。
 実は同じ人物が、2008年7月18日付で、この辺りを以下のように改めていた。

文藝春秋社に創設入社し、編集者・ジャーナリストとして活躍。また、ドイツを始めとするヨーロッパ各地を遊学する。社長である菊池寛から歓迎され日中戦争中と、太平洋戦争中、老兵として二度召集されて中国大陸を転戦。*1


 これにはすぐに気付いた人がいて、同じ日付で以下のように訂正された。

帰国後、1937年に日中戦争に召集。中国各地を転戦後、1940年除隊。なお、同じ部隊に文藝春秋社社員(のち副社長)で慶應の同級生の沢村三木男(沢村宗十郎の四男)がいた。帰国後に、文藝春秋社の沢村を訪れて、菊池寛の了解を得て入社。編集者・ジャーナリストとして活躍する[1]。


 2008年9月7日付の通り、菊池氏が入社を決めたので、「了解を得て」といった風ではないのが難点と云えば難点だが、しばらくこの状態が続く。ところが、2009年6月5日付で以下のような奇妙な書き換えがなされ、脚注1.もなくなっている。

帰国後、1937年に日中戦争に召集。中国各地を転戦後、1940年除隊。なお、同じ部隊に文藝春秋社で慶應大学の同級生の沢村三木男(沢村宗十郎の四男)がおり、除隊後に、文藝春秋社において編集者・ジャーナリストとして従事する。その後、随筆家として活躍し『父と母のいる風景』、「猫の墓」、そして自叙伝となる父・夏目漱石の執筆を菊池寛より依頼されることとなる。また、この一文の中で、夏目伸六は「私の父は文士の印税制度に於て、その生活向上に意を用いたが、更に、その趣旨をおし進めて、これを確立されたのが菊池先生であり、而も、始めて会った私を摑えて、『君など、もっと早くうちへ来ればよかったんだよ』と云われた所を見ると、単に、文士個人に対する配慮丈でなく、その家族や遺族に迄、出来得る限りの便宜を与えてやりたいと云う気持を強く持って居られたのではないかと思う」とも述べている。。


 これは意味不明で、形式も変だから、すぐに気付いた人がいて同日付で修正を加えた*2。その際、脚注1.を復活させたのは良いのだが、誤って「その後、……」以下の奇妙な加筆の後にこの脚注1.を入れてしまい、文藝春秋入社についての注が、退社後の著述活動に附されることとなってしまった。
 では、どうすれば良かったのか、というと、この辺りに関しては2008年9月7日〜2009年2月14日の状態に戻すのが最良で、随筆家としての活動は戦後、昭和30年代頃のこととして、この奇妙な加筆がなされる以前から現在に至るまで、別に以下のような記述がある*3

のちに随筆家となり、主として父漱石に関する随筆を発表。漱石神経症に由来する理不尽な家庭内暴力と癇癖を身近に知る者として[1]、小宮豊隆ら一部の崇拝者による漱石神格化には終始批判的な立場をとった。


 これで十分である。
 Wikipediaにはしばしば変な加筆がなされることがあって、そういうのを排除出来ない以上、気付いた時点で適宜修正するしかないのだが、この修正も、ただ「差分」のみチェックして辻褄を合わせようとすると、このように、奇怪さを糊塗して、却って可笑しなところを気付きにくくさせてしまうようなことにも、なりかねない。
 Wikiには「船頭多くして船山に登る」みたいな側面があるから、往々にしてこのようなことにもなるのであろう。尤も、これは普通に読んでもおかしいと分かるレベルの奇怪さだからまだしも、もっと微妙で分かりにくい誤謬が多々ありそうである。差し当たり疑問箇所を訂正するには、履歴を辿ることが必要な手続きとして存することを、確認して置きたい。

*1:7月14日付から17日付までは「文藝春秋社に入社し、編集者・ジャーナリストとして活躍。また、ドイツを始めとするヨーロッパ各地を遊学する。/日中戦争中と、太平洋戦争中、老兵として二度召集されて中国大陸を転戦。」となっていた。ヨーロッパ遊学→日中戦争文藝春秋入社という流れなので、この書き方も混乱していた。7月19日付で「創設入社」は削除されている。

*2:これが今問題にしている箇所の2012年3月15日現在の形である。

*3:引用は2008年7月14日付。このとき2012年3月15日現在と同じ状態に整備された。脚注の番号は現在は[6]。なお、2006年2月22日付で「夏目伸六」が立項された際には「夏目伸六は日本の随筆家。……。暁星小学校および同中学校を経て慶應義塾大学文学部独文科を中退。文藝春秋社に入り、主として父漱石に関する随筆を発表。漱石の癇癖を身近に知る者として、小宮豊隆ら一部の崇拝者による漱石神格化には終始批判的な立場をとった。太平洋戦争中は中国大陸を転戦。……」となっていて、文藝春秋社員の時期に随筆を多く発表したかのように読める記述になっていた。