瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

平井呈一『真夜中の檻』(19)

 次に「エイプリル・フール」だが、これにははっきり年は書き込まれていない。ただ、ヒントはある。
 「1」章の冒頭にいきなり引用されるN・Hからの「3・31」付の手紙(133〜134頁)に、「明後日(金曜日)」とある。
 そこで、昭和31年辺りからの3月31日から「明後日」4月2日の曜日を示すと、次のようになる。
・昭和31年(1956)3月31日土曜日 4月1日日曜日 4月2日月曜日
昭和32年(1957)3月31日日曜日 4月1日月曜日 4月2日火曜日
・昭和33年(1958)3月31日月曜日 4月1日火曜日 4月2日水曜日 
・昭和34年(1959)3月31日火曜日 4月1日水曜日 4月2日木曜日 
 こう続けば、そのまま1日ずつずれて、昭和35年(1960)がこの小説の設定にピッタリだ、などとうっかり思ってしまう人がいたら困る。いないと思うけど。
昭和35年(1960)3月31日木曜日 4月1日金曜日 4月2日土曜日
 もう察していることと思うが、昭和35年(1960)は閏年で、2月29日が挟まっているからこの小説の設定「3月31日水曜日 4月1日木曜日 4月2日金曜日」のようにはならない*1。この前後で設定に合致する年を探すと、昭和29年(1954)か昭和40年(1965)になってしまう。まさか未来のことではあるまいし、4月2日の「正午すこし過ぎたころ」親友の晨子が「ベンツの58年型を自分で運転して」津田家を訪ねている(「4」章、文庫版155頁)から、やはり昭和29年(1954)もあり得ない。
 では、どのように解すべきか。
 義弟英二は義姉江見子のドッペルゲンガーを本人「津田江見子プロパー」に対する「津田江見子ダッシュ」と呼んでいる(「8」章、文庫版196頁)。この伝で行くと、作中の時間は閏年によりズレなければ存在したかも知れない「昭和35年ダッシュ」なのだ。
 と、格好いい推測を示して置いて、しかし1月23日付(06)にて平井氏の時間の処理に疑問を投げ掛けた経験からすると、この「昭和35年ダッシュ」という名案を、自分で言い出して置いてすんなり受け容れがたい気もするのである。しかし、他の可能性の方がなさそうなので*2、今は平井氏がカレンダーを見て練った上でこの曜日を設定したのだ、と見て置きたい。
 ここで前回引用した山下氏の説に戻る。山下説が思い付きに過ぎないことは、作品の内部徴証に照らしてほぼ明らかだと思うのだけれども、別にこんな手続きを踏まなくとも、山下氏が自説の根拠にした中島氏の「跋」を見るに、平井氏に「一篇の作品を提示された」時期を「中秋の一夕」と明示しているではないか(文庫版426頁)。これは昭和35年(1960)の9月頃としか思えない。すなわち、「中秋」は陰暦八月、「真夜中の檻」に見える「孟夏」は陰暦四月である。陽暦とは大体1ヶ月ずれる見当で、前者が9月、後者は5月である。そして初刊本の刊行は12月だ。5月頃に一応書き上げた作品を9月頃になって人に示し12月に刊行した、という筋が見えてくる。多少のズレはあるかも知れないが。ところで中島氏に「提示」したのは「一篇」とあり、その段階では「エイプリル・フール」はまだなかったのかも知れない。私は前々回に述べたように、平井氏のバランス感覚が、異様な「真夜中の檻」を中和するために書かせたものと見ているので、或いは出版の話が出てから執筆した可能性もあるのではないか、と思う。しかしいずれにしても、2篇とも昭和35年(1960)執筆で、おそらく発表を期せずに書いたのでもなかった*3
 もちろん、山下氏のいうように「成功したら創作に転じようなどという腥い考えは毛程もなかった」だろうが、そんなことは平井氏はこの初刊本刊行直後の正月に数えで六十歳になる老人であってみれば当然である。

*1:今年の3月11日は日曜だったが、昨年は金曜日だった。

*2:いくつか挙げて置こうかと思ったが、いずれもかなり無理のある説明になるので載せないことにした。

*3:もし私の「昭和35年ダッシュ」という見当が当たっているならば、出来れば「昭和35年プロパー」のうちに刊行して置きたかったと思うのだが。