瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

中島敦の文庫本(16)

旺文社文庫(3)
 2月6日付(09)の続きで、旺文社文庫『李陵・弟子・山月記』とその改版の上製本『李陵・山月記(愛と青春の名作集)』の比較。

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 文庫版では続いて170〜172頁に、井上靖「「李陵」と「山月記」」がある。最後にやはり5行「筆者紹介」があるが「「天平の甍」で芸術推奨文部大臣賞」とあるのは「芸術選奨文部大臣賞」の誤りである。
 次に173〜178頁に岩田一男「横浜時代の中島 敦」がある。上製本にはない。『中島敦全集』別巻(二〇〇二年五月二〇日初版第一刷発行・筑摩書房・528頁)の179〜260頁「回想」のうちに203〜206頁「横浜時代の中島敦」として再録されている。

 ちなみに207〜211頁、岩田氏稿に続いて収録されている氷上英廣「中島敦――人と作品」は、1月15日付(04)で触れたが角川文庫294『李陵・弟子・名人伝』昭和43年改版に際して「解説」に追加されたものである。この昭和43年(1968)改版の角川文庫294の「主要参考文献」に「岩田一男中島敦―人と作品』(近刊予定)」が見えることは1月16日付(05)に指摘して置いたが、未刊に終わったのが残念である。草稿でも保存されていないものだろうか。
 さて、岩田氏との交渉につき、この『中島敦全集』別巻を眺めてみるに、297〜490頁「来簡」すなわち中島氏が受信したもののうちに464〜466頁「岩田一男書簡」が以下の6通紹介されている。
1 昭和十三年四月十四日
2 昭和十三年十二月十日
3 昭和十四年七月二十八日
4 昭和十五年二月十八日
5 昭和十七年九月十八日
6 昭和十七年十月四日
 いずれも小樽からで、宛先は横浜(1〜4)世田谷(56)である。従って「横浜時代」の参考にはならない。
 中島敦からの書簡は『中島敦全集』3(二〇〇二年二月二〇日初版第一刷発行・筑摩書房・692頁)503〜671頁「書簡」に282通収録されているが、岩田氏宛は1通、71番(昭和十三年五月十一日)があるのみ(542〜544頁)*1 内容は岩田氏の女性関係についての忠告で、長文だからこれだけを読んでも何となく事情は察せられるが、細かい事情までは分からない。まぁ普通、書簡なんてものは当人同士で通じれば、それでいいんだが。
 鷺只雄「解題」673〜692頁の最後(692頁)、「中島書簡の受信人」について「一言ずつ……ふれ」た中に「岩田一男は東京外国語大の出身で横浜高女の同僚、英語担当、昭和十三年に小樽高商に転じ、のち一橋大学教授」とある。『別巻』464頁の「岩田一男書簡」1によると昭和13年(1938)4月10日に小樽に着いている。小樽高等商業学校は現在の小樽商科大学

*1:この書簡の現物は、この『全集』編纂時には所在不明になっていたらしく、既存の翻刻を再録している。