瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

現代詩文庫47『木原孝一詩集』(1)

 小学4年生のときの担任が、生徒に詩を毎日書かせる人で、それを毎日編集して、藁半紙に印刷して配布してくれた。当時は版下を全て手書きで作成しないといけないので、今から考えるとすごい労力で、とにかく書くのも書かせるのも、読むのも好きだったのだと思う。それで当時の私は何の疑問も覚えずに詩などを書いていたのだが、ある時期から詩に押しつけがましさを感じるようになって、嫌いになった。もともと詩集などを読む方ではないし。
 けれども、不惑を過ぎて流石に動じなくなったか、こういうのを読んでもあまり抵抗を覚えなくなった。感受性が鈍った、というべきなのかも知れないが。けれども、結局、詩集を読んでも、辻褄が合わないとか、誤植とか、そんなことばかりせっせとメモしているのである。それは、感想を書いたらその感想が詩の解釈の押しつけになるような気がするからだけど。

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 3月26日付で紹介した『木原孝一詩集』を通読した。詩を読む趣味のない私には125〜138頁の自伝「世界非生界」が面白かった。大正一一年(1922)から昭和一八年(1943)までで、最後に小さい活字で以下のような注記がある。

硫黄島作戦については別に計画中の作品で詳細に書く予/定である。
*戦後の私については別に準備中の『戦後詩壇私史』にお/いて書く予定である。


 これらについてはまだ確認していない。それはともかく、生き生きとした幼少期の回想も、昭和9年(1934)に入学した東京府立実科工業学校建築本科を昭和13年(1938)12月に卒業し、以後、建築技師として陸軍に入り、以後Chinaや日本国内で陣地構築などに携わっている辺りの記述も、裏表紙の黒田三郎の紹介文(茶色のゴシック体)にある「昭和という時代を懸命に生きたひとりの人間の歴史」として興味深い。
 けれども、おかしなところがある。
 この編年体の自伝は「昭和一八年」で終わっているのだが、最後、「五月」に備部隊司令部に転属となって、「父島だか、硫黄島だか」に向かう一〇九師団指令部の、「六月三〇日」完了予定の「師団編成を手伝」っているところに、「六月一五日。突如、サイパン島に米軍上陸」という知らせが入り、大本営は「備部隊の本拠第三一軍の所在地」であるサイパンに「一〇九師団逆上陸」を立案、一時は「サイパン突入が決定」し、そのための「削岩機」の手配に動いたりするが、結局は以下のようになる。この自伝の最後の段落。

 六月二七日、大本営サイパン逆上陸を断念し、一〇/九師団司令部は、七月一日、硫黄島に上陸。上陸直後、/私が全島をくまなく歩いて驚いたことは、ベトン特火点/(トーチカ)がひとつも無いということだった。日本は/敗北する、という実感を、そのとき私ははじめて持っ/た。*1


 しかしながらこの「硫黄島に配属」された時期は昭和18年(1943)ではおかしいので、3月26日付に引用した裏表紙の略伝にある通り、昭和19年(1944)のことである。大体、昭和18年(1943)のこの時期ではまだソロモン諸島でも戦っている。
 とすると、この興味深い自伝はどこかで1年ずれてしまっているのだ。これは重大な錯誤である。(以下続稿)

*1:それまでは「戦争に勝つとはおもわなかったが、最後まで戦えばなんとかなるという気だった。」(昭和一八年条の最初の段落)。