瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

現代詩文庫47『木原孝一詩集』(2)

 さて、この1年の錯誤だが、昭和一六年条に、

 一二月。大本営付被命。八日朝、淵野辺から電車に乗/り、その車内で、対米英開戦を知る。大本営に出頭する/と、戦時設計規格、戦時構造規格、設計委員を命ぜられ/る。建築技師不在の軍隊で、容易に兵舎や陣地の構築が/できるように、単純に規格化された設計図を作製するの/だ。熱地三角兵舎、寒地三角兵舎、半地下式兵舎、陣地、/隧道、交通路など。……

とあるから、ここまでは間違っていないようだ。この年、三月から「相模原町淵野辺*1の陸軍兵器学校勤務」だった。
 そして、昭和一八年となっている最後の年は、前回確認したように昭和一九年のことらしいから、怪しいのは昭和一七年条ということになる。
 しかしながら、読んでみると、何の違和感もない。
 昭和一六年条の残りは「三年ぶり」に帰った「東京」で「この四個月間、ある酒場の女性と恋愛。……」とあるが、昭和一七年条は「四月。大本営の任務を終り、陸軍重砲兵学校駒門分教場新設工事のため、富士山麓静岡県駿東郡富士岡村駒門に赴く。……」で始まっており、この恋愛は昭和16年(1941)12月から翌年3月までの4箇月、ということになる。
 昭和一七年条、続いて「約二個月、毎夜深更まで設計と工事予算の編成」に費やし、「七月設計完了。予算一一〇万円。現在の金額にして約一〇億円。工事期間、約一個年。重砲校側委員三好少佐と協力、この工事に熱中する。」という訳で、どこにも空白はない。
 そして昭和一八年条、約1箇年の工事が「五月。構築物はほとんど完成、あとは地下格納庫を残すのみとなった」段階で突如、前回触れた「備部隊司令部に転属」ということになる。やはり、どこにも隙間がない。この辺りがおかしい、という見当はつくものの、この文だけを読む分にはそれがどこだか、分からない。そこで、少し検索してみた。
 まず、陸上自衛隊駒門駐屯地のHPを見るに、「沿革」のところ「昭和18年8月 日本陸軍重砲兵学校富士分教場として開校」とある。昭和17年に工事を始めて1年後に完成、という木原氏の記述はこれで裏付けられる。
 だとすると、おかしいのは昭和一七年条ではない。昭和一八年条の「五月」が、実は途中で昭和18年(1943)5月から昭和19年(1944)5月にすっ飛んでいる、ということになりそうだ。第109師団(師団長栗林忠道)についてWikipediaその他を見るに、昭和19年5月下旬に再編成されている。
 木原氏がこの自伝を硫黄島上陸で打ち切らずにあと1年、終戦まで書き進めておれば、こんな錯誤にはすぐに気付けたろうが、ここで止しにしたために、うっかり見落としてしまったのである。
 ともかく、この自伝、昭和一八年五月の混乱、そして昭和19年(1944)5月までの1年間が空白になっている他は、ほぼ信用して良さそうだ。出来ればこの空白も埋められれば良いのだが、それは俄に出来兼ねるので、しばらく、詩から、この自伝に見える事件がどのように扱われているかを、拾ってみよう。(以下続稿)

*1:現在の神奈川県相模原市中央区