瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

現代詩文庫47『木原孝一詩集』(4)

 「詩篇」Ⅰには10篇を収録するが、その9番め(22〜23頁)に「鎮魂歌」がある。
 これは木原氏の代表作で、高校教科書(『現代文』教育出版)にも収録されている。
 ネット上にも複数のサイトで全文が引用されており、感想を述べているブログもいくつかあるので、ここでは自伝との関連について、特に注意しつつ述べてみよう。
 第2連「昭和三年 春/弟よ おまえの/二回目の誕生日に/キャッチボオルの硬球がそれて/おまえのやわらかい大脳にあたった/……」とある。自伝「世界非生界」によると、弟が生まれたのは大正15年(1926)らしい。
 従って、昭和3年(1928)の誕生日が「二回目の誕生日に」なる計算ではある。
 3月26日付「偽汽車(1)」で触れた、木原氏が母の実家に預けられていた1年間に生まれたのである。昭和二年条(127頁上段)に「春、両親が迎えに来た。……。母が馬車から降りたとき、その腕のなかには弟の清治が抱かれていた。……」とあり、次の段落に「弟清治は昭和二十年五月二十四日の空襲で死んだ。」とある。なお木原孝一は筆名。いつから、何故、この筆名を使っているのかは調べていない。
 しかしながら、この一件は自伝の昭和三年条ではなく昭和四年条の最後の段落(129頁上段)に、

 この年、近くの学生が道路でやっていたキャッチ・ボ/ールの球がそれて弟清治の頭にぶつかる。以後、死ぬま/で、弟はテンカンに悩まされる。

と見える。1年ずらしている訳だが、その理由は「鎮魂歌」の構成と関連している。
 続く第3連は3字下げで「一九二八年/世界の中心からそれたボオルが/ひとりの支那の将軍を殺した そのとき/……」とある。これは前回取り上げた「音楽1」にも言及されていた張作霖爆殺事件だが、「鎮魂歌」は、偶数連で弟の身の上に起こったことを「昭和」で、3字下げの奇数連でそれに対比させて西暦で日本を取り巻く国際情勢を述べる、という構成になっている。ここは「一九二八年」に触れたいがために、「弟」の生涯の大事件の時期を、少々ずらしたのであろう。
 第4連は「昭和八年 春/弟よ おまえは/小学校の鉄の門を 一年遅れてくぐった/……」とある。ここは第5連「一九三三年/孤立せる東洋の最強国 国際連盟を脱退/……」と絡められている。但し、弟が大正15年(1926)生とすれば昭和8年(1933)に小学校入学でおかしくない。もちろん大正15年(1926)でも1〜3月生であれば昭和7年(1932)4月入学だから「一年遅れ」だが、自伝では弟の生年月日や小学校入学について触れていないので、確認出来ない。
 第6連は「昭和十四年 春/弟よ おまえは/ちいさな模型飛行機をつくりあげた/……」で第7連「一九三九年/無差別爆撃がはじまった/……」と対比。無差別爆撃というとゲルニカを想起するが、これはスペイン内戦中の昭和12年(1937)4月26日。(以下続稿)