瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

現代詩文庫47『木原孝一詩集』(5)

 「鎮魂歌」の続き。

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 第8連「昭和二十年/五月二十四日の夜が明けると/弟よ おまえは黒焦げの燃えがらだった/……」。木原氏の一家の昭和2年(1927)以降の住所は自伝昭和二年条(127頁上段)によれば「東京府荏原郡戸越町蛇窪一〇六五番地」である。しかし「戸越町」ではなく平塚町(→荏原町荏原区)である。また「上蛇窪」と「下蛇窪」は存在したが、ただの「蛇窪」はなかった。この辺りの地名が混乱しているのは、或いは故意なのかとさえ思えて来る。東京市に合併されて後の住所は昭和七年十月一日条(130頁上段)に「東京市荏原区戸越町一〇六五番地」とある。
 なお、昭和三年条に次のような記述がある。

 当時、東横電鉄大井町線(現在の田園都市線)が開通/したばかりで、蛇窪駅から大井町駅までよく乗って遊ん/だ。まだ手動式ドアのボギー車だった。蛇窪駅裏の坊主/山、大井町鉄道工廠裏の三菱鉛筆工場、洗足池、目黒不/動などが遊び場だった。多くの場合、四キロ余りの道を(以上127頁)歩いて遊びに行った。


 大井町線昭和2年(1927)7月6日、目黒蒲田電鉄により大井町〜大岡山間が開通。東京横浜電鉄*1と合併したのは昭和14年(1939)10月であるが、大正11年(1922)の会社設立当初から五島慶太が経営を仕切っていた。そういう意識もあって東横電鉄と呼んだのか、どうか。昭和17年(1942)に東京急行電鉄となっている。大井町駅の次が戸越駅(現在の下神明駅)、その次が蛇窪駅(現在の戸越公園駅)。この2つの駅は昭和11年(1936)1月1日に改称されている。蛇窪という地名が消滅するについてはXWIN IIのブログ「XWIN II Weblog」2009/12/16「「蛇窪」という地名が消滅する過程で、地名の保存とは何かを考える」が参考になる。
 さて、「現在の田園都市線」とあるように、この詩集が刊行された当時、大井町線田園都市線だった。昭和38年(1963)10月11日に田園都市線に改称された。当時は大井町から溝ノ口まで。昭和41年(1966)に長津田まで延伸、その後も延伸を続けるが、昭和52年(1977)4月7日に路面電車だった玉川線を継承した新玉川線が開通し、二子玉川園駅から先の田園都市線新玉川線が直通運転されるようになって(現在の田園都市線)昭和54年(1979)8月12日に大井町二子玉川園間は田園都市線から切り離されて大井町線に戻っている。木原氏はこの大井町線の名称復活直後の9月7日に没している。
 ちなみに、第4連に見えた地元の「小学校」は自伝昭和三年条(127頁上段〜下段)に「荏原郡立宮前尋常小学校入学。校長・角田錦/里、教頭・鈴木貞作、担任・……」と見える。現在の品川区立宮前小学校で、戸越公園駅から北に続く商店街の左(西)側にある。HPの「本校の概要」を見るに、歴代校長としてまず、大正15年(1926)開校から昭和13年(1938)まで初代校長の角田錦里、そして昭和13年から昭和19年(1944)の二代校長鈴木喜作とある。或いは、木原氏在学当時の教頭「鈴木貞作」と同一人物ではないか、という気がする。すなわち「貞作」は「喜作」の誤植か記憶違いかと。似た名前の別人の可能性も十分あるが、気になったので注意して置く。
 ネット検索で分かる程度の調べを羅列したに過ぎないので恐縮だが、話を戻して、宮前小学校もHPの「本校の概要」沿革史を見るに、やはり昭和20年(1945)5月24日に、焼失している。(以下続稿)

*1:大正13年(1924)10月に武蔵電気鉄道が社名変更。