瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

再びコメント欄について(1)

 金環日蝕は、よく分からなかった。確かにちょっと暗くなったけれども、やっぱり眩しくて見てられなかった。

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 手紙が苦手である。
 最初は長文の手紙を書く。書くべきことがあるから書くので、しかもくどい性格だから自然と長文になる。
 しかしながら、そのうちに書くことがなくなる。
 或いは、調べたり確認したりしないことには書けなくなる。
 そうすると、たちまち滞る。
 それから、勘違いもされた。たまたま何かのきっかけで、手紙を書く。それは相手が知りたがっていることを、こっちが既に詳しく知っていたりして、それで死蔵していても仕方がないし、お節介なので教えたくなって、書く。
 すると、返事が来る。関連していることやそれとは別の事柄について、質問して来る。
 こちらはたまたま知っていることだから長々と説明しただけであるのに、そういう人なのだと思い込まれたらしいのだ。
 で、私も出来れば、それに答えたいと思う。人情として。
 関連していることなら、なんとか対応出来るかも知れない。しかし、別の事柄になると、すぐには対応出来ない。
 しかし、全く何も知らぬことでもないので、時間に余裕があれば調べて返事をしたいと思う。
 けれども、余裕がない。手紙のやりとりをしていた頃は、メールも一般的でなかった頃で、今ならネット検索ですぐに分かるようなことも、図書館に行って重い辞書や事典を引っ張り出さないといけなかった。私は、以前にも書いたけれども、博識になろうとして成り損なった、というか、もうならなくていいや、と開き直った人間なので、一応、専門について調べ方などは心得ているつもりである。OPACのない時代から図書館に入り浸っていたから、今でも図書館に行くと目当ての棚に行くまでに20分は費やしてしまう。ピンポイントで目的地に達すればそれで良い、という発想が、出来ない。たぶん、調べ方も、妙に徹底している。複数の参考図書を見て、古い時期の文献から、最新のものまで一通りピックアップして、それから実際に当たって行く。
 そんな風だから、1日以上かかってしまう。
 そこまでしなくてもいいんじゃないか、と思われるかも知れないが、自分の専門の調べ物についてもそんな風にして呑気にやって来たのだから、今更改まらないのである。
 で、結局どうなるかというと、そのまま音信不通になる。――図書館で、あれとあれ、それからあの辺の棚を一通り見渡して、という見当は、すぐに付く。しかし、他人が私と同じところに行って同じように調べられるとは思えない。いや、同じところに行かせて同じ本を読ませようにも、私は分類番号で見当を付けているだけで、本の名前まで一々覚えていない。分類番号だって何となく分かっているだけで、日本十進分類法(NDC)の下1桁の分け方までは知らない。小数点以下も同じく。……行けば分かるんだから、覚える必要を感じなかったためである。そうなると、自分で調べて返事を書くのでなければ、相手に出て来てもらって、一緒に図書館に入って私と一緒にうろうろしながら、それらしき本を1冊1冊書棚から抜き出して、ぱらぱらとめくりながら良さそうな本を選り分けるのに付き合ってもらった方が早いくらいだ。――いや、そんなことをしたことも、ないではないが、上手く行かなかった。私の場合1人で無軌道無制限に歩き回っているから良いので*1、連れの手前を考えて歩いているようでは閃きも何も起こらないし、向こうは向こうで私の一見、取り留めのない、実際に気の向くまま思い付きに従って館内を右往左往している様子に不安を覚えるのか、次第に付き合い切れないというような態度を示す。本当はどう思ってるのかは知らないが。だってそんなこと聞けないじゃないか。
 それはともかく、結局気にしながら調べに行く余裕のないまま、何もしないでいるうちに、忘れてしまう。(以下続稿)

*1:もちろん、それで膨大な時間を無駄にして来たはずなのだが、それが、無駄に思えない。しかし端から見ていたら「なぜそこで立ち止まる?」「今その本に目を通す余裕あんのか?」と突っ込みを入れられても仕方がないような、そんな行動をしているだろうと思う。「いったいこの人は、何を目当てにここに来たのか?」と。